「年輪経営」までの道のり
塚越氏はこの経験により、人の痛みや苦しみがわかり、人の情けや共に助け合うこと、そして希望を持って生きることの大切さを体感された。そして、次のようなことを言っておられる。「人にとって健康がいかに幸せで、その幸せこそが何よりも大切なものだと心の奥深くで理解した。」と。いい言葉だ。経験した人でないと語れない。その後、塚越氏は親族が経営する木材会社を経て、子会社だった寒天メーカー伊那食品工業の立て直しのために派遣されることになる。まだ、21歳の頃である。当時の伊那食品工業は社員十数人、工場は掘っ立て小屋、設立間もないのに赤字が続き倒産寸前だったらしい。
そこで、正月以外は休みなく働き続け、社員と一枚岩になったという。曰く、「働けるだけで幸せで、この会社をよくしたい、社員が楽しく働き、取引先にも喜ばれる会社にしたいという思いだけだった。」さらに続け、「会社が成長するということは、必ずしも売上や規模の拡大ではない。社員が前より快適になったな、前より幸せになったなと実感できることが成長である。幸せを感じるには、給料が上がったとか、職場がきれいになったとか、働きがいを感じる、制度など働きやすい環境が整っているなど、色々あると思う。これらの実現と会社永続のバランスを取りながら経営することが大事だと考えている。」
「年輪経営」の実践
そこで辿り着いたのが「年輪経営」である。まるで、木の年輪のように少しずつ、前年より着実に成長していく。これが塚越氏の理想である。年輪はその年の天候によって大きく育つときもあれば、小さくなるときもある。年輪の幅は違っていても確実に拡大していく。年輪の幅は若い木ほど大きくなるが、年数が経ってくると、幅は小さくなる。成長率はだんだん下がってくるが、幹自体は太くなっているので、生長の絶対量は増えていく。木の習性だろうが、年輪は幅の広いところほど弱く、逆に狭い部分は堅くて強い。それが自然だし、会社にも同じことが言える。これがまさに「年輪経営」の神髄である。2005年頃に、テレビの健康番組で「寒天に含まれる食物繊維が健康にいい」という情報が流されて、寒天ブームが起きたことがあった。ダイエットブームと相まって、注文が殺到したため、やむを得ず、増産を決断したらしい。
その結果、この年の売上は前年比40%増と大幅に伸びたが、寒天ブームが一段落した翌年からは、売上が減り、利益も前年を下回って連続増収増益が途切れてしまった。過大な設備投資などはしていなかったので、大きな痛手はなかったが、その後遺症から脱するのに数年かかったそうだ。やはり、急成長は会社をダメにしてしまう。この一件は、「年輪経営」が間違っていなかったことを証明したようなものだ。
また、大手スーパーから商品を全国展開しないかという話もあったというが、身の丈に合わないと断ってきたそうだ。
年功序列型の賃金制度を維持する
伊那食品工業の本社敷地は3万坪あり、「かんてんぱぱガーデン」と命名して、地域の人たちも自由には入れる公園となっている。自然を活かした緑あふれる公園で、ここには本社・研究棟のみならず、ショップ、ホール、健康パビリオン、レストラン、そば処、カフェなどがあり、年間数十万人の来客があるという。会社が緑に包まれ、そんな環境で働けたら社員も幸せだろうなと思い、1987年から整備を始めたそうだ。そして、ガーデン内にはゴミ1つ落ちていない。それは、毎朝、役員も含めて社員全員が自主的に掃除をしてくれているから。会社の始業前に、ほとんどの社員が出社して掃除をしているという。もちろん、会社から強制されることなく。社員が自分事と感じ入っているのだろう。何とも羨ましい会社である。
塚越氏は、会社は社員との運命共同体であり、私は社員を家族だと思っている、と宣う。昔の日本企業は、どこもそうした考え方を持っていたが、いつの間にか手段と目的を誤認して、利益至上主義になっている企業が大多数だ。成果主義や能力給を導入して、ジョブ型雇用を推し進めている。国の方針も然りである。いわば経済的な効率だけを企業経営のメルクマールとしているように見える。しかしながら、目先の効率は長期的には非効率を生み出すことは歴史が証明している。
伊那食品工業はいまでも年功序列型の賃金制度を守っている。そこには、会社が社員の目線で経営している姿が浮かび上がる。社員のライフステージをイメージしたら、子供が成長し、出費がかさむ40~50代の生活を支えることは、子どもに等しく教育を受ける機会を提供することにもなる。社員への貸付制度が、社員の持ち家志向を後押しもしている。そのほか社員向けの色々な支援制度があり、このようにして社員のモチベーションが上がっている。実はこれが経営の最大の効率化なのかもしれない。
100年カレンダーによる社員教育こそ真骨頂
伊那食品工業の社員教育の最大の特徴が、社員一人ひとりの「命日」を「100年カレンダー」により自覚させることである。どういう事かというと、社員一人ひとりに一度しかない人生をどう生きるかを考えさせているのである。誰しも若い頃に「死」というものを自覚することはない。しかし、それを自覚させ、人生が須らく有限だと思えば、ダラダラと一日を過ごすことはなくなる。人生の幸せの量は、愛すべき人を愛した量に比例して跳ね返ってくるともいう。自分が幸せになりたいなら、愛すべき人を精一杯愛することだ。また、心が美人だと人も幸せも向こうからやってくる。伊那食品工業の「100年カレンダー」教育は他の何物にも代え難い「年輪経営」の必須アイテムなのである。
武田信玄の「正範語録」にこんな言葉が並んでいる。
・真剣だと知恵が出る
・中途半端だと愚痴が出る
・いい加減だと言い訳ばかり
伊那食品工業の社員は、きっと「真剣だと知恵が出る」しか持ち合わせていないだろう。
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