札幌の大学病院などで小児科医として、またウイルス学、ワクチン学を研究してこられた本間真二郎先生は、それまで「医師として漠然と抱いていた疑問」を解決するためには、専門の「医」だけではなく、根本的なところから総合的に考える必要があると思った、として2009年から栃木県に移住、農的な生活をしながら医師を全うしておられる。最近上梓された著書『病気を遠ざける暮らし方』(講談社ビーシー刊)の中で、「感染症(インフルエンザ、新型コロナウイルスなど)は、医師が薬を処方しなくても、自分の力が健全に働いていれば、自然に治るものである」と述べておられる。
企業も個人も「他者軸」から「自己軸」への転換が成長を促す

医者としての矜持

多くの人は、健康のために何かをしなければならないと思い込んでいるのではないか? たとえば、「病気になったら薬を飲まなくてはならない」、「食事はこういうものを食べなくてはならない」など、「〇〇しなければ……」というフレーズに囚われているのではないか。

最大の予防は、特別なものを食べたり、何かを行ったりすることではなく、毎日の生活を「なるべく自然なものにすることにより、からだ本来の働きを高めておくこと」に尽きる、と。つまり、日常生活をどう過ごすかで、病気になるかならないか、もしくは病気になっても健康な状態に戻せるかどうかが決まる、と主張されている。

著書の中で、碩学の名を冠するに足りる名言だと感じたのは、新型コロナウイルスの世界的な流行と、それによる社会の大きな変化により、よりはっきりとしたことがある。それは、私たちはあらゆるところを「人まかせ」にしすぎている、つまり、「他者軸に頼りすぎている」のではないか、という件(くだり)である。

曰く、たとえば新型コロナウイルスに遭遇しても、「感染する」、「重症化する」、「死亡する」などは、ウイルスという「他者」ではなく、自分の免疫力という「自己」の力によって決まるものである。それにもかかわらず、内なる力を高めることよりも、「人との接触を避け」、「消毒をし」、「マスクをし」、「ワクチンを打つ」という他者軸に頼った感染対策を2年も3年も続けてきた。こうした「他者軸」による対策は、免疫力や抵抗力を落としてしまうという側面があるため、根本的な対策とはならない。その結果、マスクの着用、ワクチン接種も「世界一」ともいわれてきた日本であるが、感染の拡大がその後も続いてきたことは周知のとおりである。

このように、今の世の中の大きな問題は、「自己軸を失っていること」、「他者軸に依存しきっていること」なのではないか。医療に限らず、生活、政治、経済、農業、教育などあらゆる分野でそうである。本来は人任せにしてはいけないことが、社会全体のあらゆるところを人任せにしているように見受けられる。それが、社会のさまざまな問題を引き起こしている要因であることは間違いない。このように述べておられる。

「自己軸」と「他者軸」はこんなところにも

全く同感である。情報化社会の弊害なのかどうかわからないが、指示待ちで、他律的な人が増えているように筆者も感じている。

オランダの組織文化の研究者ヘールト・ホフステードが、アメリカのIBM社の依頼で調査した「権力格差指標(Power Distance Index)」というものがある(下図)。数値が大きい国では、親と子、教師と生徒、上司と部下、などの関係で、権力のある者に権力が無い者が依存する、という図式が成り立つが、数値が小さい国では権力がある者と無い者は同等の関係を取る。日本は(54)と中庸処ではあるが、他の要因も相俟って、強い者・権威ある者に極めて従順であり、実態としてはさらに上位に位置しているのではないか。この歴史的・風土的な環境も「他者軸」の傾向に拍車をかけているのかもしれない。
世界各国の権力格差指標の値
また、個人の「自己軸」、「他者軸」とは視点が異なるかもしれないが、「尺貫法(※)」と「メートル法」も、人間中心か否かという点では同類項ではないだろうか。最近では「尺貫法」を知らない人がほとんどだろうが、一例を示すと次のとおりだ。

●1石=10斗=100升=1,000合
●人間が食べる米の量=1日3合×360日=1,080合≒1,000合=1石


つまり、1石というのは1人の人間が1年に食べる米の量を基準にして定めた単位のことである。そして、「1石」の米の値段が「1両」であった。

また、
●1石の米の量が採れる水田の広さ=「1反」
●1反=300坪(豊臣秀吉の太閤検地以前は360坪)

であるから、1坪というのは人間1人の1日分の米が穫れる田圃の広さのことなのである。ちなみに、1坪は畳2畳分の広さである。

一方で、欧米由来のメートル法の1mは子午線の4千万分の1、重量の単位である1gは水1立法センチメートルの重さ、といったように、人間生活とは切り離されたところで決められた基準である。

※尺貫法とは、長さ・面積などの単位系のひとつ。 長さの単位を「尺」、質量の単位を「貫」、体積の単位を「升」とする日本古来の度量衡法。メートル条約加入後、1891年(明治24)メートル法を基準として、尺・坪(面積の単位)・升・貫を定義し、1958年(昭和33)までメートル法と併用されていた。

もうひとつの例は「太陰暦」である。これは月の満ち欠けで1ヵ月を定める暦のことである。月は形や見える時間が毎日変わっていくので、古(いにしえ)の人間にとって様々な物事を決めるに都合がよかったのである。1日・2日は闇夜、3日は三日月、15日は満月といったように、太陰暦ではほぼ暦と月の満ち欠けが一致していた。例えば、「本能寺の変」は天正10年6月1日に起こったが、この日は天候にかかわらず闇夜だ。文字どおり闇討ちだったことが、今でもわかる。

このように、日本古来の農耕文化の中で使われてきた「尺貫法」や「太陰暦」は、極めて人間中心の世界観を内包している。本間先生の言葉を借りれば、「自己軸」で回り、多くの知恵を歴史的に蓄積してきた。しかし、明治以降の欧米化の波はそれらを排除してしまったのである。

「自己軸」にシフトしよう

最近の風潮を憂うと言えば、考え過ぎだろうと思われるかもしれない。しかし、行き過ぎた「他者軸」を修正し、「自己軸」とは何か、を見つめ直す時期に差し掛かっているように思えてならない。国でも企業でも、成長を確かなものにしていくためには、一人ひとりが「自己軸」を持つことにより醸成されると思うからだ。
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