「ウェルビーイング経営」に企業が取り組むべき理由
「ウェルビーイング経営」が人事施策として注目を集めるようになってきたきっかけは、新型コロナウイルス感染症の流行であると考える方が多いかもしれません。確かに、その一面はありますが、健康管理システムを通して10年以上前から企業の健康管理の実態を見てきた立場としては、コロナ以前から企業が従業員の健康や生きがいを支援する動きは拡大していました。ただし、そうした動きに「ウェルビーイング経営」という名前がついていなかっただけなのです。では、いつから「ウェルビーイング経営」という考え方がスタートしているのかというと、1948年に設立されたWHO(世界保健機関)の憲章に記された健康の定義にヒントがあります。
健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。( WHO憲章前文より)
訳文に従うと、「well-being」とは「満たされた状態」を意味することになります。一般的に言い直すと、「肉体的な健康・精神的な健康・社会的な健康」と言えば分かりやすいでしょう。肉体的な健康と精神的な健康はイメージがつきやすい一方で、「社会的な健康」とは何を指すのでしょうか?
私が考えるに、従業員、つまり働くひとにとっての「社会的な健康」とは、経済面であり、キャリアであり、家族関係が含まれます。働くということに肉体的・精神的な健康を損なうリスクがあることはよく知られていますが、同時に社会的な健康とも密接に関連しているのです。
このように、健康を個人だけの問題として捉えるのではなく、社会的な問題としても捉える動きは、公衆衛生の世界的潮流でもあります。従来、明らかに身体に害のある喫煙がやめられないことや、高血圧なのに昼食にラーメンを食べてしまうことは、本人の行動や意識が不足しているせいだと考えられていました。現在では、その人の不健康が発生する要因の半分以上は社会的な環境に依存しているという「Social Determinants of Health(健康の社会的決定要因)」の考え方が主流です。
例えば、喫煙者がタバコをやめられない要因としては、その人の周囲の喫煙者や、ストレスの多い職場環境、喫煙場所に容易にアクセスできることなどが挙げられます。他にも、メンタルヘルス不調に陥る要因は、本人のパーソナリティも一つではありますが、大部分は業務の負担や上司・同僚との関係性にあることは、人事のみなさんにも直感的に知っているはずです。
こうして、「健康管理・健康づくりは個人だけが抱える問題ではなく、企業も支援することで解決すべき経営課題である」という動きが徐々に広がってきた結果、現在では「ウェルビーイング経営」が人事の注目施策になっているのです。
「ウェルビーイング経営」における人事施策
「健康」の定義や示す範囲は、使われる文脈によって変わります。企業に関わるキーワードで言えば、「ウェルビーイング」・「健康経営」・「ワークエンゲージメント」・「産業保健」などがありますが、私が代表を務めるiCAREでは、企業が取り組む「健康」を5つに分類しています(図表1)。図表1
これら5つの健康を企業が達成するためには、従業員に向けた人事施策を工夫することになります。具体的な人事施策の例をピックアップしてみました(図表2)。
図表2
●テレワークの導入でメンタルヘルス不調者が増えた企業
テレワークに限らず、ここ数年でワークスタイルは大きく変化し多様化しました。結果として、メンタルヘルス不調の原因もこれまでとは異なる傾向が表れているのです。オフィスワーク中心の働き方では、「長時間労働」や「ハラスメント」といった、“人と人が深く交わることによるストレス”が、メンタルヘルス不調の要因でした。一方で、現在は「コミュニケーションのすれ違い」や「人事評価の不透明性」といった、“人と人が交わる機会が減ったことによるストレス”も要因となっているのです。メンタルヘルス不調者が増えている企業においての「ウェルビーイング経営」としては、「どういった働き方をしている従業員に不調者が多く発生しているのか」を分析することが重要です。ファイブリングスの「安全と衛生」にあたる人事施策、「ストレスチェック」や「産業医面談の実施」を充実させることが具体的な対策となります。
ストレスチェックを通してメンタルヘルス不調の原因を分析する方法については、前回の記事でも解説しています。
【新任管理職向け】「メンタルヘルス対策」の基礎知識
●女性従業員の離職率が一向に改善しない企業
人事が担う課題の中でも、離職はもっとも優先度の高いものの一つです。働き方改革を実践し、長時間労働の削減や有給取得率の向上に成功している企業であっても、なぜか離職率が改善しないというケースは存在します。特に女性従業員の場合、育児や介護が離職にいたるきっかけになります。ここで、従業員視点で考えてみましょう。育児や介護といった事情がある場合、一般的にはフルタイムではなく時短での働き方を会社から推奨されます。しかし、従業員本人としては、フルタイムのままで働き続けたいという本音があります。そうした時に、テレワークやフレックスタイム制度が充実している他社を知ると、「出勤・退勤の時間にあと1時間、融通がきけば働きやすくなる」と考えて離職を決意してしまうのです。そこで、育児・介護や病気の治療などをきっかけとした離職に改善が見られない場合には、テレワークやフレックスタイムといった「勤務時間を柔軟にできる制度」を充実できないか、検討してみてはどうでしょうか。
●若年層の転職が増えてきた企業
Z世代やミレニアル世代といった若年層は、ウェルビーイングに関心の高い層としても知られています。その特徴として、安全性や働きやすさといった労働条件に加えて、「働きがい」や「生きがい」を求めて積極的に職業選択に動きます。これも従業員視点で捉えてみると、「キャリアアップのために別の職種にチャレンジしたい」というニーズを、今いる企業の中で満たすことができないために、転職するという決意になってしまいます。こうした若年層への転職対策としては、社内異動の公募制度や資格の取得支援といった人事施策を予め設けておくと、効果を発揮するでしょう。
「ウェルビーイング経営」と「健康経営」の違い
「ウェルビーイング経営」と、似た意味で使われることの多い「健康経営」とは、何か違いがあるのでしょうか? 「健康経営」とは、2006年にNPO法人健康経営研究会が以下のように定義した言葉です。改めてこの定義に照らし合わせてみると、「健康経営」の目的は「従業員を健康にすること」ではないことが分かります。「健康に配慮する」ことを手段として、経営的なメリットを目的としているのです。「ウェルビーイング経営」も同様です。さきほどの3つの具体例で示したように、従業員視点で健康(肉体的・精神的・社会的な)に関する課題を解決することで、企業として人材戦略上のメリットを得ることを目的としています。
それでは「ウェルビーイング経営」と「健康経営」の決定的な違いは何かというと、視点の違いです。「ウェルビーイング経営」が従業員目線であるのに対して、「健康経営」は企業目線であり、同じ事柄を示す言葉遣いにも明確な違いが表れています。具体的に比較してみましょう(図表3)。
図表3
経営者を説得して予算を獲得するなら、「健康経営」文脈の方が経営者にとってはなじみやすい言葉になります。また、経済産業省が顕彰する「健康経営優良法人」認定制度があるため、取り組みのマイルストーンも立てやすくなります。一方で、従業員を巻き込んでいくにあたって「健康経営」文脈の言葉を使ってしまうと、「なぜ会社のために健康についてとやかく言われないといけないのか」、「自分の体調は自分が一番分かっているから」などと従業員の反発を招いてしまい、モチベーションを低下させてしまうこともあります。
「健康」とは、最終的には個人の価値観によって捉え方が変わるものです。従業員それぞれに行動変容を促していくのであれば、企業視点での「健康経営」推進ではなく、従業員視点での「ウェルビーイング」の充実をかかげることで、会社全体を巻き込みやすくなります。
「ウェルビーイング経営」に対する社外からの評価
ここまで、健康管理に関する世界的な潮流から、「ウェルビーイング経営」の具体例と「健康経営」との違いを解説してきました。「ウェルビーイング経営」にしろ「健康経営」にしろ、どちらも企業価値の向上を目的として従業員の健康へのアプローチを深めようとすることに変わりはありません。それでは、なぜ従業員の健康へのアプローチが、企業価値の向上につながるのでしょうか?よくある答えとして、「従業員が健康になることで生産性の向上(正しくは生産性低下の防止)が見込まれるから企業価値が高くなる」というものがあります。確かにそれも一つの要因ではあるのですが、私は「人的資本への投資として社外からの評価が高まる」ことがもっとも大きな要因になると考えています。
「人的資本への投資」は人事にとってのトレンドワードですが、同時に求職者(労働市場)と投資家(資本市場)からも注目が集まっています。日本政府としても、2020年から経済産業省による「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」をスタートし、同年、その報告書として通称「人材版伊藤レポート」を、2022年には「人材版伊藤レポート2.0」を公開。さらに、同省が2022年5月に公表した「未来人材ビジョン」では、「日本企業の部長の年収はタイよりも低い」などいくつもの衝撃的なデータが公開されました。
人的資本への投資、すなわち「人的資本経営」とは、財務指標(売上・利益・生産性など)には表れない、非財務指標である「人材」への投資を経営戦略に基づいて拡大し、情報開示することで、持続的な企業価値の向上につなげる経営方針の一つです。具体的にどのような項目が人的資本への投資として評価されるのかは、「ISO 30414(人的資本に関する情報開示のガイドライン)」の下記11領域から分かります。
1.コンプライアンスと倫理
2.費用
3.多様性
4.リーダーシップ
5.企業文化
6.組織の健康と安全とウェルビーイング
7.生産性
8.採用・異動・離職
9.スキルと能力
10.後継者育成
11.労働力確保
従業員の健康へのアプローチを充実させることは、人的資本への投資のうち「6. 組織の健康と安全とウェルビーイング」に該当します。また間接的でありますが「3.多様性」、「5.企業文化」、「8.採用・異動・離職」、「11.労働力確保」の指標にも含まれてきます。
このように、「人的資本経営」に注目が集まる状況では、「ウェルビーイング経営」の有効性を次のような2つの側面から整理できます。1つめは、「従業員が不健康になる要因を取り除くことで休職やプレゼンティズム(出勤をしていても疾病により100%の生産性が発揮できない損失)を改善する」という、「財務指標」に関わる側面。もう1つは、「人事制度や職場のルールを整備することで採用力や多様性を高める」といった、「非財務指標」に関わる側面です。ファイブリングスによる健康投資と、企業価値とのつながりを示したものが図表4です。
図表4
「健康経営」実践企業の次の一手は、従業員視点の人事施策
「ウェルビーイング経営」と「健康経営」の違いは視点の違いであり、「ウェルビーイング経営」は従業員視点、「健康経営」は企業視点であることを様々な具体例とともに解説しました。「これから『健康経営』に取り組み始める企業も、はじめから従業員視点を持ったほうが良いでしょうか?」。もしこのような質問があれば、私としては「企業視点での『健康経営』からはじめるべき」とお答えします。確かに、従業員視点での人事施策を充実させることは必要です。しかし、実務の観点からは非常に難易度の高い取り組みになってしまい、結果が表れるには時間がかかるために、プロジェクトが継続できない可能性が高いからです。
企業視点の「健康経営」であれば、「健康経営優良法人」をはじめとする各種認定制度が整備されており、実務としての取り組みも人事が主導して経営者を巻き込むことで達成できるケースがほとんどです。そのため、短期間(1〜2年)のうちに一定の成果を見せることが可能です。
一方で、すでに「健康経営」を実践できている企業は、次なる一手として「ウェルビーイング経営」に取り掛かっていただきたいと考えます。具体的には、本記事で紹介したような従業員視点の課題を解決するような人事施策を充実させることと、それらの取り組みや成果を積極的に社外へ情報開示することです。
次回は、「健康経営」には欠かせない専門的知見をもつ「産業看護職」を、健康経営のアドバイザーに迎え入れるメリットをお伝えします。
※ 健康経営®は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。
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