ワークスタイルの変化によって多様化したメンタルヘルス不調
「テレワークによってメンタルヘルス不調を訴える従業員が増えた」という声をよく聞きますが、本当にメンタルヘルス不調者は増えたのでしょうか? 健康管理システム「Carely」による調査では、テレワークを導入した企業において有意に高ストレス者が増えていることは認められませんでした。一方で、メンタルヘルス不調の要因が多様化している傾向は表れています。同調査によれば、2020年以前では、メンタルヘルスに関する相談は「ハラスメント」や「長時間労働」に関する内容が大半を占めていました。しかし、2020年以降の相談では「上司・同僚とのコミュニケーション」、「睡眠障害(眠れない・起きられない)」、「業務へのモチベーション低下」といった内容が増えていることから、メンタルヘルス不調の要因や症状は多様化していると捉えられます。
特に、2020年以前の「ハラスメント」や「長時間労働」といった要因は“人と人が会うこと”によって起きるストレスであるのに対し、近年増加傾向にある要因は“人と人とが会わないこと”によるストレスであると言えます。つまり、以前と比べて「なぜ従業員がメンタルヘルス不調に陥っているのか?」という原因を把握しづらいために、その対応策についても手をこまねいているというのが、人事・労務をはじめとする企業の健康管理の現場の課題なのです。
そもそも、メンタルヘルス不調は、たった一つの要因が原因となるわけではありません。上記にあげた複数の要因が重なった結果として症状が表れるため、「この取り組みさえすれば、メンタルヘルス不調者は減る」といったような“銀の弾丸”はありえません。
そして、ワークスタイルが変化したのならば、企業のメンタルヘルス対策も変わらなければなりません。これまでは人事・労務といった特定の部門が健康管理を担ってきましたが、これからの時代においては、各部門を率いる管理職もメンタルヘルスをはじめとした健康管理への対応策を身に付けることが求められます。それでは、具体的にどのような内容を管理職研修として学ぶのかについて解説しましょう。
リスクマネジメントとしてのメンタルヘルス対策
そもそも、「企業のメンタルヘルス対策に管理職が関わるべきなのか?」という疑問があるでしょう。厚生労働省の「労働者の心の健康の保持増進のための指針」では、4つのケアを継続的かつ計画的に実施することが重要であると示されています(図表1)。図表1
しかし当たり前のことですが、管理職に対して「メンタルヘルス対策が大事ですので、管理監督者としてラインケアを実践してください」と伝えるだけでラインケアが機能することはありません。ですので、管理職研修の冒頭では、まず「企業がメンタルヘルス対策をすべき理由」を説明します。
そこで、必ずおさえておくべきなのが「安全配慮義務」です。企業(使用者)には、雇用している従業員が安全で健康に働ける職場環境を提供する義務、つまり「安全配慮義務」が課されています。特に、安全配慮義務は「両罰規定」であるため、法令に違反した行為をした特定の管理職に加えて、企業も罰金や損害賠償責任を追うことになります。これが、リスクマネジメントとして、企業がメンタルヘルス不調に対策すべき理由です。安全配慮義務については、「労働契約法」で次のように定められています。
使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。
条文では「使用者」つまり経営者の義務となっていますが、使用者に代わって部下への指示を行う「管理監督者」も対象に入ります。部長や工場長はもちろん、課長や現場監督といった下位の職位であっても、部下への業務指示があれば、「安全配慮義務」を履行しなければならない対象となります。
この「安全配慮義務を履行する」とはどういうことか、企業の安全配慮義務違反を初めて認定した判例から説明します。
ラジオ推進部に赴任した新入社員Aは、慢性的な長時間労働が続いた結果うつ病を罹患し、入社約1年5ヵ月後に自殺。企業側が主張する残業時間は約65時間/月であったが、実態は約150時間/月であった。
新入社員Aには、自殺前の出張時、車の運転において蛇行運転やパッシングといった異常行動が見られた。上司が問いかけるとAは「僕、霊にとりつかれちゃったみたいなんですよね」と答えた。これに対し上司は「仕事がつらいのか」と質問すると、Aは「自分で今、何をしているのかわからない」と答えた。その際、上司は特に対応せず、出張から帰宅後にAは自殺した。
遺族である両親は損害賠償請求をし、企業とは約1億6,800万円の賠償で和解となった。
上記の判例からは、「安全配慮義務を満たす3つの要素」を知ることができます。上司は、長時間労働が続いていること(1.業務起因性)と、健康状態が悪化していることを認識(2.予見可能性)しながらも、適切な防止措置(3.結果回避義務)をとらなかったことから、安全配慮義務に違反したとして、裁判所は企業の責任を認めたのです。
管理職に求められるリスクマネジメント
それでは、部下へ業務の指示を行う管理職として「安全配慮義務」を履行するために、どんな対応が適切なのでしょうか? リスクマネジメント観点の対応には、2つのポイントがあります。ひとつは、「部下のいつもと違う様子に気付くこと」。もうひとつは「部下の不調に気付いた場合、産業医との面談に引き継ぐこと」です。人は、ストレスにさらされ続けると、心や身体に症状が表れ、普段のコミュニケーションや仕事のパフォーマンスに影響します。高ストレスによる心と身体の症状は、図表2の順番で起こってきます。症状の頭文字をとった語呂合わせとして「ゲイツ心配おねしょ」と筆者が考案しまとめたものです(もちろん実在する有名人とは関係ありません)。
図表2
部下の不調を発見した後は、不調の度合いを評価し、適切な対応策をとることが求められます。しかし、メンタルヘルスに関する評価と対応は一般社員には難しいため、専門家へつなぐことが管理職の役割となります。
人事・労務としては、管理職発で産業医面談をセッティングできるよう、連絡方法を定めておくと良いでしょう。また、管理職自身が産業医との1on1を受けて部下への対応を相談できる機会を設けることも有用です。
健康への投資としてのメンタルヘルス対策
企業としてメンタルヘルス対策に取り組む理由は、不調者を出さないためのリスクマネジメントだけではありません。管理職を巻き込んだメンタルヘルス対策では、「従業員エンゲージメント」や「生産性」を高めるといったプラスの効果が見込めることも、取り組みを行う理由のひとつです。さきほど紹介した「リスクマネジメントとしてのメンタルヘルス対策」は、「二次予防」と呼ばれる、すでに発生した健康異常の早期発見を目的としたものです。一方で、「一次予防」と呼ばれる、メンタルヘルス不調を事前に予防する対策のひとつが「職場環境改善」です。職場環境改善の有効性については、世界的に科学的根拠が集積されており、WHO(世界保健機構)は世界各国の好事例や支援ツールを提供しています。日本においても、職場環境改善の有効性を示した「健康いきいき職場の論理モデル」(図表3)がストレスチェック(新職業性ストレス簡易調査票、通称80問版)でも採用されています。
図表3
仕事の負担と、「作業レベル」の仕事の資源
課長や現場監督などの“具体的な業務指示を担う管理職”は、部下の「仕事の負担」と「作業レベルの仕事の資源」に特に深く関わります。作業レベルの仕事の資源としては、「仕事のコントロール(裁量権)の広さ」、「スキルや経験と業務とのマッチング」、「成長の機会が十分に与えられているかどうか」が問われます。これらの要素が満たされているとプラスに働きますが、逆に、裁量権がほとんどなくミスマッチで、成長の機会がない業務では、従業員の「やらされ感」が強くなり、エンゲージメントの低下や離職リスクを高めてしまう可能性があります。また、具体的な業務指示を担う立場の管理職は、心身の健康障害に強く影響する「長時間労働」、「精神的負担の高い業務」、「対人関係などの異変」についても、部下の状態をいち早く察知できるでしょう。普段から、仕事の話とともにちょっとした声かけを意識するだけでも、有効な職場環境改善となります。
「部署レベル」と「企業レベル」の仕事の資源
部長や支店長、役員、経営者といった“人事権を有する管理職”は、部下の「部署レベルと企業レベルの仕事の資源」に深く関わります。部署レベルの資源としては「業務を遂行するうえでの支援」が鍵となり、「上司や同僚からの支援・報酬」や「ポジションの安定性」、「心理的安全性の担保」なども重要な要素です。これらは、労働生産性の向上や、企業に対するエンゲージメントを高めることに影響します。企業レベルの仕事の資源としては「経営者との信頼関係」や「多様性への尊重」、「公正な人事評価」や「キャリア形成」などが該当します。これらの要素は、人材を資本ととらえ、その価値を最大限に引き出すことで企業価値を高めていくという「人的資本経営」の観点からも重要視されており、従業員の健康への影響というよりは、組織としての持続可能性に影響すると考えられています。
なお、ここで紹介した「仕事の資源」については、80問版のストレスチェック(新職業性ストレス簡易調査票)によって、自社の職場環境を測定することができます。管理職研修を実施する際には、ストレスチェックの「集団分析結果」を研修資料として活用することで、管理職は自分事として学びを得られます。
「効果的な管理職研修」を実施するための、人事・労務の準備
以上、「リスクマネジメントとしてのメンタルヘルス対策」と「健康への投資としてのメンタルヘルス対策」が、管理職向けのメンタルヘルス研修として学んでいただきたい内容になります。最後に、研修の実施にあたり、人事・労務として工夫すべき3つのポイントをご紹介しておきましょう。管理職向け研修では、参加した管理職が「何を学んだか」よりも「学んだ内容をいかに実行に移せているかどうか」が重要指標となります。管理職向けメンタルヘルス研修に向けて、以下の準備を進めておくと、より効果的な研修となるはずです。
1つめの準備は、「研修の対象者を決めること」です。本記事でご紹介したのは、「新任管理職を対象としたメンタルヘルス研修」の内容であり、管理職への昇進時に実施されることを想定しています。しかし人は、学んだことの約8割は1ヵ月後には忘れているものですので、昇進時に加え、できれば1年に1回、定期的に研修を実施すると良いでしょう。
定期的な研修の際、参加者の職位や管掌範囲がバラバラであると、各自が“自分事”として学べないというデメリットがあります。先述したメンタルヘルス対策のうち、リスクマネジメント観点での改善策の方が優先度が高くなるため、産業医とともにストレスチェックの集団分析を読み解いた上で、改善優先度の高い職位や部署を選んで対象者を絞ることも検討してください。
2つめの準備は、「管理職がそれぞれの部署やチームに所属する従業員の残業時間(時間外労働)をいつでも確認できる体制を整えておくこと」です。本記事の冒頭で、メンタルヘルス不調の要因は多様化していることをお伝えしましたが、それでも主な要因が「長時間労働」であることに変わりありません。人事・労務として、全従業員の残業時間の推移を追いかけることは現実的ではありませんが、管理職として、所属の従業員に限って残業時間に気を配ることは十分に可能です。勤怠システムを導入していれば、準備にはさほど手間がかからないと思いますので、ぜひ取り組んでみてください。
3つめの準備は、「管理職向けの相談窓口を設置すること」です。管理職にとっては、通常業務がある中でのメンタルヘルス対策はどうしても後手に回ってしまいがちです。「部下のいつもと違う様子に気付いたとしても、どのように対応したら良いのか分からない」といったケースは必ず発生するものですので、メンタルヘルス研修で学んだ後には、管理職自身が産業医との1on1を受けられる機会を設けておくことも、メンタルヘルス対策を実行に移せる有効な策となります。
また、管理職向けの相談窓口の設置にはもう一つの大きなメリットがあります。それは「管理職自身のセルフケアにつながること」です。従業員の健康管理やハラスメントに対し、厳格化されている現在では、管理職自身がメンタルヘルス不調に陥ることもあります。特に、管理職という立場ゆえに、健康に対する自己責任意識が強すぎたり、人事評価への影響を気にしすぎて周囲への相談ができず、メンタルヘルス不調が深刻化してしまったりする傾向があります。そういう意味でも、管理職向けの相談窓口が設置されていると、管理職自身へのメンタルヘルス不調への予防策となるのです。
次回は、よくある質問への回答として「ウェルビーイング経営と健康経営の違い」を世界的な潮流を踏まえて解説します。それではまた。
※ 健康経営®は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。
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