ケース2
篠原和也は、オフィス向けの事務機器を扱う販売会社の営業マネジャーである。あるエリアを任されている支店長で、支店には4人の部下がいる。三好隆志、小杉大輔、西田裕子の3人は営業を担当している。いずれも20歳代後半から30歳代前半の、ちょうど油が乗っているころである。この3人に加えて、アシスタントの友石幸恵が、篠原の部下である。競合企業は多い。類似の事務機器を扱っている企業は、そのエリアに5社ある。最近は競合の攻勢に押され気味で、この支店の売上は徐々に下がってきている。
限られたエリアで6社が競い合っている状況のなか、他社よりも一歩抜き出るためには綿密な戦略が必要になる。篠原が打ち出した戦略は、経営層にアプローチすることである。総務部門にアプローチしていては、採用決定まで何度も面談をしなければならず、また総務部長がOKを出したとしても、経営会議でひっくり返されることもある。経営層に対する提案機会が得られたならば、意思決定も早い。そして何よりも、決裁権限の大きい経営層を相手にすれば、提案内容を大型化することができるというメリットがある。
経営層アプローチは、篠原自らが実践してきたやり方である。ちょうどいまの部下の30歳ぐらいのときに、篠原が試行錯誤の末にたどり着いたやり方だ。それからというもの、常に成績上位者リストに名を連ねるようになった。こうした実績から、このエリアの業績回復の切り札として、昨年に支店長として送り込まれてきた。エリア内の顧客特性を綿密に分析した篠原は、ここでも経営層アプローチが使えることを確信し、導入に踏み切った。
篠原は、部下全員を集めて新しい戦略を説明した。いま置かれている状況説明から始まり、経営層アプローチとはどのようなものか、なぜその戦略が有効なのかを説明した。その説明はとても分かりやすく、一つの矛盾もなかった。高めの支店目標を掲げたが、部下全員がうまくいきそうだと感じ、全員が賛同した。
翌日に篠原は3人の営業担当それぞれと面談し、一人ひとりに対する目標を伝えた。昨日に話を聞いたときには、どの部下もなんとかなりそうだと思った。しかし、個々人の目標に落とし込まれると、難易度の高さを鮮明に感じた。“こんな目標、達成できるんだろうか…”だれもがそう思ったが、篠原の話を聞けば聞くほど、否定する理由が見つからなくなった。「分かりました。頑張ります。」部下がそう言うと、篠原は立ち上がって握手を求め、こう言った。「ありがとう。簡単ではないけれども、頑張ってくれ。期末になって目標を達している姿を楽しみにしているよ。」
篠原の進捗管理方法は、壁管理である。2種類の模造紙を壁に貼っている。ひとつは、売上高の進捗管理表である。3人の進捗が棒グラフで表され、目標売上高までの差も一目で分かるようになっている。もうひとつは、経営層にアプローチした回数である。これも目標値と進捗が分かるようになっている。これを見れば、だれが実績をあげ、だれがあげていないのかも一目瞭然である。
篠原は、この2つの指標を使って部下を管理した。部下の帰社時間がどんなに遅くなろうとも、必ず支店に残っていた。帰社した営業担当から報告を受け、経営層にアプローチできたかどうかを確認した。単なる名刺交換や日常挨拶ではカウントしない。商品を提案して初めて“1”とカウントする。
確かに経営層アプローチは効果があった。それを最も実感したのは三好であった。懇意にしている総務部長から総務担当役員を紹介してもらったときには、通常の半分の面談回数で、通常の倍の額の受注に結びついた。それを聞いた小杉と西田も、関係の深い顧客にお願いして役員を紹介してもらった。残念ながら受注には至らなかったが、総務担当者とやり取りをしているときにはなかったスピード感を味わった。
とはいうものの、経営層を紹介してくれる顧客は限られている。すぐに尽きてしまった。あとは営業個々人の力でなんとかしなければならない。電話でアポを取ろうにも、ほとんどつないでもらえない。手紙を書いても返事が来るはずもない。それどころか、飛び越されたと感じた総務担当者からクレームが届く始末である。効果があるのは確かだが、やり方がわからないし、やる能力もない。やがて3人はそう感じるようになった。
篠原は容赦ない。「目標設定の面談でやるって言ったじゃないか。最後までやり切ってくれ。できないならできる方法を考えてくれ。」こうしたやり取りが多くなり、支店の雰囲気は徐々に悪くなってきた。
経営層アプローチという戦略は決して間違っていない。それなのに支店の成果があがらないのは、何がいけないのか。