バブル期より以前から使われていたように記憶していますので、遅くとも1980年代にはあった言葉だと思います(もっと前からかあったかも・・・)。
かなり以前から、自ら考えて動けない、指示待ちの社員に企業は困っていたのでしょう。
そう思う 3.4%
わからない 4.5%
そう思わない 92.1%
感覚的には、「指示されたこと以上をやろう」「創意工夫して業務に当たろう」という意識をもっている新入社員が92.1%と大多数を占めるようではあります。
現場でがんばって、指示された以上のことをやってくれそうです。
ただ、指示された以外のことをやってはいけない仕事も世の中にはあります。
意味はわからずとも、言われた通り、マニュアルの通りにやることを求められる作業もあるのです。
決して、マニュアルを逸脱してはいけない類の仕事が存在します。
1999年、茨城県東海村であった原子力燃料製造工程での臨界事故は、正規マニュアル逸脱で生じました。
工夫して効率化しようとしたのか、「時間で労働を売っている」のだから、できるだけ「楽しよう」としたのかわかりませんが、言われたとおりの方法=本来のマニュアルを逸脱することで、生じた臨界事故です。
もちろん、現場作業員に知識は要らないと考え、基礎知識をきちんと与えていないから、裏マニュアルを超えてさらにあんな作業のショートカットを行ったんだという批判もあるかもしれません。
いずれにせよ、このように「徹底してマニュアルを遵守する」ことが求められる現場といいものがあります。
この場合、職場での創意工夫は多くの場合、有害でしかありません。
そのような「マニュアル遵守」が求められるある交通企業の新卒のデータを見ると、この設問で「そう思う」という率は20.6%もあります。
意図に沿った採用が行われているということでしょう。
まずは、言われたとおりやること、それを求めること自体は、間違いではありません。
むしろ、入社直後の最初の段階では、「言われたとおり、まずやる人」のほうが
「勝手に創意工夫する人」より確実に伸びます。
(一部の志と能力の高い人は違いますが、そういう人は極めてまれです)
指示されたことをその通りできるようになるだけでも実は、大変なことなのです。
組織人の第一歩は、言われたとおり、やってみること、そこに間違いはありません。
この設問で問いたい、もうひとつの観点は、
「我々は時間で労働を売っている」というところにあります。
「我々は時間で労働を売っているのだから、勤務時間中に指示されたことだけをやっていればよい」というこの設問、「時間で労働を売っている」というこの部分が一番の課題ではないかと思っています。
この意識を持つ限り、まずプロにはなれません。
ある飲食業の人事担当者に聞いたのですが、その会社では、勤怠管理が「入室したときから退室まで」になっているそうです。
新人は早く来て、準備をし、仕事が終わった後も先輩から調理を教わり・・・ということが(少なくともこれまでは)当たり前のはずで、そうでないと、業務に習熟しないはずの仕事です。
なのに、自分の意思であっても、仕事の後、残って技能を磨くことは、残業になるため、禁止、もちろん、早出もだめという状況に・・・
まさしく、時間で労働を売る感覚とそれを助長する制度。
時間内に「できることだけする」というモチベーションの低い社員を作ってしまいそうです。
それが、仕事の効率化意識につながればよいのですが、ちょっと違う気がします。
「先輩からの業務スキルの伝授は、教育訓練に相当するので、業務時間外にやれば残業の対象になるのは、当たり前じゃないか?」とのご意見もわかります。
日本の産業の強さって、自発的学習、訓練による技能の向上に支えられていたのではないでしょうか?
技能職でなくとも、仕事のノウハウの多くは、時間外に伝授されることが実際は多いのではないかと思うのです(上司との飲み会も含め)。
別に、際限なく、時間外も勉強しろ、スキルを磨け、上司や先輩に付き合えとはいいません。
右か左か、サービス残業は是か非か、ではなく、「適当な按配」というものがあると思うのです。
この按配が最近はなかなか通用しなくなってきたように感じます。
(悪用する企業も確かにあります)
環境が「余計なこと=創意工夫をしてはいけない方向」になり、また、新入社員も余計なことはしない傾向が強まっているように感じます。
内田樹著「下流志向」の中で紹介されている事例ですが、・正社員にならないか?というと、断る「優秀な人」がいる。
理由は、正社員になると、自由がなくなるから。
・優秀だったので、プロジェクトの責任者にしたら、これも辞めてしまった。
理由は、責任を負いたくないから。
その結果、不利益をこうむっても構わない、という意識もあるようです。
働くことは、楽しいことであり、より大きな責任を負うことは、より大きなことができるようになったことである、と考える思考は弱まっているようです。
「仕事とは苦痛であり、その苦痛の代償として給与を得る」、そのような労働観は、あまり日本的ではないと私は信じています。
社会において、労働とは、権利であり、同時に義務であるはず。
しかし、近年、私が信じているこのような労働観は崩れつつあるようです。
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