「楽しい」には2つの性質がある
きょうは働くこと・キャリアを考えるうえで、「仕事が楽しい」とはどういう状態なのか、あるいは「楽しい仕事」とはどんな仕事なのかをあらためて考えてみたいと思います。そこでまず、この「楽しい」という気持ち。これをよくよく見つめると、そこには性質的な幅があることに気がつきます。すなわち、幅の一方には「情的な楽しい」があり、他方に「意的な楽しい」があります。前者は一語で言うと「快」、後者は「泰」です。人が感じる楽しいは、このような性質の異なる「楽しい」が、複雑な階調をなしてつながっています。先に結論的なことを書きますと───
「情的な楽しい/快」は、刺激的だけれども不安定。
「意的な楽しい/泰」は、じんわりと心を押し上げ安定的。
ではそのあたりを、私が行っている「キャリア・ウェルネス・ワークショップ」の講義スライドを何枚か見せながら説明してまいりましょう。
他方、右側。発展途上国で医療に関わる活動です。これは決して楽(ラク)ではありません。大変なことばかりでしょう。しかし楽しい。魂の充実があるからです。自分の決意・志を具現化しているとき、人は「意の楽しさ」を得ます。
端的には「快(かい)」状態か、「泰(たい)」の状態かの違いです。快は心地よく、気分がさっぱりした状態をいい、「爽快」「快適」など、軽やかな感じです。一方、泰はどっしりと太く落ち着いた状態をいい、「安泰」「泰然」など安定しているニュアンスです。
「情的な楽しい」も、「意的な楽しい」も人生には必要で、前者は生きるうえでの「華やぎ」、後者は生きるうえでの「滋養土」といったものだと思います。
「意的な楽しい」は、主に創造活動や貢献活動から得られるもので、この楽しさというものは、人をつくり、育むことにつながってきます。
また、私たちは生きていくうえでいろいろ競争をしなくてはいけませんが、他者との比較競争で勝つ喜びや優越できる上機嫌のようなものがあります。これらは「情の楽しい」といえるでしょう。その一方、他者との競争・勝ち負けではなく、自分に克って、何かを成し遂げていく喜びは「意の楽しい」に属するものです。
ここでは、どちらの「楽しい」がよいか、わるいかを問うているのではありません。どちらも必要なものですし、私たちはこの2つの間を行ったり来たりします。見つめてみたいのは、どちらの活動・どちらの「楽しい」が自分の人生のベースになっているか、です。
さらに言えばこうした傾向性は、成功者をひたすら目指す「成功のキャリア」や、逆に成功者路線をあきらめ、小さな「快」の殻に閉じこもる「自己防衛のキャリア」につながってきます。
他方、「意的な楽しい」を求めることがベースになっている人は、建設的な喜びを好む傾向が強い人です。自分のやり遂げたい意味・貢献に意識が向いていて、他者との比較や競争をあまり気にしません。自分に克つか、妥協するかを問います。
こうした傾向性は、みずからの存在を十全に開いていくことを喜びとする「健やかさのキャリア」につながってきます。
このように、ひとくちに「仕事が楽しい」と言っても、それが「情」寄りで楽しいのか、「意」寄りで楽しいのか性質の違いがあります。
歳を重ねるとともに「仕事の楽しさ」の質が変わってくる
私個人の話をしますと、20代から30代前半は、仕事をスポーツのようにとらえていました。そのため販売個数や市場シェアなどの数値を追いかけ、目標をクリアすることを面白がっていました。競合他社に勝てば喜び、負ければ悔しがる。いい成績をあげて社内で評価が高まればうれしい、評価が下がれば落ち込む。そういった上がり下がりの波が、自分の仕事意欲の刺激剤でもありました。振り返れば、「情的な楽しい」がベースの日々だったように思います。ところが30代半ば過ぎからはそうしたスポーツ的な激しい仕事の繰り返しに飽きがきたり、疑問がわいたりして、趣味生活を重視する時期がきます。仕事はほどほどに抑え、趣味の充実に走ります。趣味からもいろいろな楽しみや刺激を得ましたが、やはり消費や所有からくる喜びは「情」寄りのものです。長続きしませんし、肚ごたえが足りません。
そんな中で、自分は自分の能力と意志を使って、世の中に何を届ける存在になりたいのかという問いをつねに投げかけていました。そんなとき、運命的な言葉に出合ったのです。それは中国の古いことわざでした───
十年の繁栄を願わば、樹を育てよ。
百年の繁栄を願わば、人を育てよ。
「そうだ、自分が献身したいのは人の心を育む仕事ではないか。そして自分なりに考える教育の新しい方法・表現を世の中に届けてみたい!」と、一筋の光が見えました。その瞬間以来、仕事が貢献的・使命的な活動に切り替わり、「意的な楽しい」を志向するようになったのです。サラリーマンをやめて個人自営業になり、経済的には毎年ドタバタの奮闘が続きますが、心は「泰」となり、健やかな仕事生活が続きます。
人生100年間を「快」で埋め尽くすのは難しい
講義スライドでも言及したとおり、「情的な楽しい」と「意的な楽しい」のどちらがよいかわるいかの話ではありません。感情と意志はどちらも必要なものであり、その複雑な混合と相互影響によって人は動いていきます。ただ、それぞれの人において、その混ざり具合や優位性に個性があり、また、一人の人間でも人生のときどきで混ざり具合や優位性が変化してくるわけなのです。一般的には、若いときほど多感であり、「情」優位の精神になるでしょう。「好き・嫌い」や「快い・気持ちいい」が行動を主導します。問題は中高年以降です。うまく成熟が進むと、「意」が優位となり、「正しい・正しくない」や「泰(やす)い・意味のある」が行動選択に大きな影響力をもってくるようになります。いわゆる思慮ある落ち着いた大人ができあがるわけです。私自身も多少このように順調に成熟できたのかなと思います。
ところが、中高年になってキャリアで悩んでいる、仕事生活でモヤモヤ感に覆われている人をみると、依然、「情」ベースで仕事に向き合っている場合が多いように見受けられます。命じられた仕事が好きになれるかどうか、自分の仕事ぶりはまっとうに評価されているかどうか、会社や上司のやり方が気に入るか気に入らないか、など。もちろんこうした感情的な悩みや不満はあって当然ですが、その次元に留まっているかぎり、キャリアは開けてきません。
「情」ベースの生き方は、基本的に受動的で反応的にならざるをえません。会社員として振られる仕事や立場は、ほとんどが経営側からの意思のもので、自分の「楽しい」にかなったものに当たることはきわめて稀です。また人間関係においても、多様な人が集まる職場において、「楽しく」付き合える人はそう多くありません。感情的に反応しているかぎり、「快」を得られないことばかりなのは当然です。
一部には「人生、仕事がすべてじゃないだろう」ということで、仕事以外のところで「快」を見つけて生きていけばいいという割り切りの考え方もあります。それはそれでいっこうにかまいませんが、ここで認識したいのは、「快」は本質的に持続しない喜びだということです。人生100年間を「快」で埋め尽くすのは難しいことのように思えます。「快」は人生の目的としてあるというより、何か主たる目的成就の奮闘があり、そこに至るまでのところどころに、よきスパイスとして、よき薬として、よき花としてあるもの、あるいは手段・ごほうびとしてあるものととらえたほうがいいでしょう。
「快」追求から「泰」志向へのマインド・シフトを
私はいま、仕事やキャリアに「健やかさ」という価値の目線を入れることを提唱しています。これは角度を変えて言えば、「意の楽しい」を基軸にする働き方です。刹那に消費される「快」を追うのではなく、持続的に自分がはつらつとできる「泰」を志向する。生産年齢者として50年、人間として100年生きるとき、この「情」ベースから「意」ベースへ、「快」の追求から「泰」の志向へのマインド・シフトともいうべき意識転換が重要だと思います。人は決意のもとに活動するとき、最も元気になります。だから「決意」をしないといけないのです。キャリアがつくれないとか、キャリアが不安だと言う人は、実は決意をしていない場合がほとんどです。決意から逃げて、あわよくば外部環境が都合よく転んでくれないかなと願うのです。能力が足りていないから決意できないというのも言い訳です。
意をベースにする「仕事が楽しい/楽しい仕事」の獲得は、そういった面で決してやさしくはありません。しかし、堅固な「意」が主導して、そこに熱き「情」が伴ってくる。さらには、ここでは詳しく触れませんが3つめの要素である「知」が、やっていることの正しさを検証する。こうなれば最強のキャリア推進力が生まれます。
真の「仕事が楽しい」には、苦労もある、リスクもある、理不尽もある。しかし、そこには、強い決意があり、肚ごたえがあり、泰然自若と構えられる。今年も師走となりました。来年に向け、そうした真の「楽しい仕事」をつくり出すべく、いろいろと仕掛けをはじめてはいかがでしょうか。
(執筆者:村山 昇)
※本記事は『GLOBIS 知見録』に掲載された記事の転載です。
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