※対談はライフネット生命保険オフィスにて行い、写真背景にあるバルーンの「41」は、保有契約41万件(対談当時)を表しているそうです。
これほど、「頑張ればいいことがある」という言葉に重みを感じたことはない。岡部さんの世の中に適応していく生き方には、ダイバーシティマネジメントのヒントがたくさん隠されていた。
悔しい思いをした少年時代
稲垣:当社のグローバル事業は、外国籍人材の異文化適応力を測ったり、教育したり、外国籍人材を受け入れる人材(主に日本人)の異文化受容力測ったり教育したりするソリューションを開発しています。この異文化適応や受容の能力は、「Cultural Intelligence(CQ)」というのですが、島国で育った日本人は海外の人たちと比較してCQが高くないのが現状です。しかし、これから日本にはどんどん外国の方が増え、自分とは異なった価値観をもつ人が入ってきます。さらには、ジェネレーションやジェンダーなど、いろんな「違い」を受け入れるCQが必要だと思っています。私の考えでは、耳や目が不自由な方と聴者も文化や価値観が違うのではないでしょうか。今日は失礼な質問もあるかもしれませんが、岡部さんにご自身の体験談の中から、さまざまな価値観・文化的バックボーンをもつ人達をどのように受け入れ、共存していくか、というヒントを教えていただきたいと思っています。
岡部:わかりました。おっしゃる通り「デフ(聴覚障がい者)」と聴者とは、文化が異なるところがあります。例えば、デフは外国人と同じように母語が日本語ではありません。我々の母語は「手話」です。よって、日本語は第二言語なんですね。つまり、本や文字を読む場合は、第二言語を使っているということです。
稲垣:なるほど、そう言われればそうですね。多くのデフの方は、言語を習得する時からバイリンガルなんですね。簡単に岡部さんの自己紹介をしていただけますでしょうか。
岡部:1987年、秋田県生まれの33歳です。「両側感音性難聴」という障がいがあって、生まれつき耳が聞こえません。中学時代に陸上と出会い、2012年の「トロント 世界ろう陸上選手権」で、400メートル準決勝進出、4×400メートルリレー決勝3位銅メダル獲得。2016年 「スタラ・ザゴラ 世界ろう陸上選手権」では、4×400メートルリレー決勝2位で日本史上初の銀メダルを獲得しました。同年にライフネット生命に入社し、当社初のアスリート社員として、陸上競技と総務を業務としています。
岡部:はい。母の話では、僕の名前を呼んでも振り向かなかったと。僕にとっては聞こえない世界が当たり前でした。昔の補聴器はちょっと大きくてロボットのような感じで、すごく嫌だったんですよね。ほかの子供達から「宇宙人みたい」と言われたこともあります。シーンとした世界の中から、その、ロボットみたいな大きな箱型の補聴器をつけて、初めて音を聞いた時には、飛行機のエンジン音のレベル(120デシベル)でやっと聞こえるぐらいだったので、音の種類や、音の有無はわかるけれども、どんな内容かまではわかりませんでした。
そういう時には視覚を使って確認をします。しかし困難なことは多かったです。例えば自転車で細い道を進んでいる時に後ろから車が来ても、クラクションは当然聞こえません。その時に、クラクションを鳴らしているのにどかない図々しい奴だと誤解されて怒られたりとか、「耳が不自由です」という仕草をしても、「補聴器をしているんだから、聞こえるんでしょう」と言われたりすることがあります。確かに補聴器で補うことができる人もいますが、みんながみんな、そういうわけではない。いろいろな種類・程度の難聴の人がいるし、レベル、デシベルの違いによって聞こえ方が違う。このことを、こういった取材や講演の場で話して、皆さんに理解を深めていただきたいと思っています。
稲垣:小さい頃もたくさんご苦労があったでしょうね。
岡部:かけっこでは、スタートのピストル音が聞こえないので友達が走り出したのを確認して、自分もスタートするしかありません。そうすると、どうしても結果を出すのは難しいですよね。どんなに頑張っても1位になれなくて、もどかしさを抱えていました。そして、どんどん消極的になっていって、控えめになったり引っ込み思案になったりしていました。友達同士の話もよくわからないまま、うんうんと頷いてその場をやり過ごして。人前では笑顔でいますが、裏では笑っていませんでした。
「鬼コーチ」だった恩師との出会い
稲垣:自分が変わるきっかけは何だったでしょうか?岡部:中学1年生までは一般の学校に通っていたのですが、小学校までの友達は中学に入るとバラバラになるので、新しい人とゼロから関係を作っていかないといけない。先生の言葉も口の動きを見て理解しなきゃいけない。例えば、英語や音楽は、非常に苦しかったですね。人間関係もコミュニケーションが難しくて。我慢の限界になって、中2の時に秋田市のろう学校に転校しました。小学校の間は、背が高いこともあってバスケットボールをやっていたんです。けれども、ろう学校には部活動が卓球と陸上と美術部の3つしかなくて。僕はなぜか陸上にピンと来て、入部することになりました。そこで石垣徹先生という「鬼コーチ」に出会いました(笑)。非常にビシビシ鍛えられたというか、しごかれたというか。その時はすごく苦しくて、泣いてしまったこともあったんですけれども、その愛の鞭というか、「愛情ある教え」のおかげで今があると思っています。
稲垣:「人生の恩人」というような方でしょうか。
岡部:そうだと思っています。先生には、時折、障がい者の国体などの大会で挨拶に行くようにしています。入部したばかりの時は、先生の指導は厳しかったですし、本当につらかった。毎日毎日、自分ばかり怒られて。練習メニューもすごくきつくて。僕は障がい者ですから、もうやめたほうがいいかな、とマイナスなことばかりを考えていました。
稲垣:耳が不自由な人に慣れてない人間からすると、どのように接したらいいんだろう、という戸惑いがあって遠慮してしまいがちだと思うので、その石垣先生が厳しく接したというのはすごいなと感じます。
岡部:当時の僕としては、ひどいなと思っていました。毎日毎日「やめてやる!」って、ずっと思っていたほどですね。父に、学校に電話をして「部活、やめます」って言ってほしいとお願いしたことがあるぐらいなんですよ。でも両親は「頑張って、いいことあるから頑張って」と言われて。家族はどんなに苦しくても、何があっても、いつもサポートしてくれました。何度もやめようと思ったけれど、一生懸命、ビリからやっていきました。
そして、初めて中3の時に参加した東北地区聾学校体育大会で、新記録で優勝したんです。でも、実はその時でも先生には怒られると思ったんです。それくらい怖かったんです。そうしたら、先生はいつもは鬼のような顔だったのに、その時初めて笑顔でやって来て、握手をしてくれて、すごく喜んでくれたんです。そこで初めて、「頑張ればいいことがあるんだ」と実感しました。あの時の「頑張ればいいことがある」っていう実感は、今でも思い出せる。それがずっと心の支えというか、何があっても苦しいことがあっても諦めないという気持ちにつながっていると思います。
先生が厳しくすることには意味があった。もし僕が諦めたら何も進まないし、どうにもできないまま、同じままだったと思うけれども、それを乗り越えて一歩進んだことで成功体験を積み、厳しいメニューもこなせるようになった。そして、モチベーションにつながっていって、自分を信じることができるようになりました。それまでは、「僕は障がい者だから無理だ」とはじめから諦めてしまったり、自分だけが怒られているのは先生が悪いと思ったりしていました。先生は鬼だと思っていたんです。でも、実際に練習して乗り越えて、その結果、自分を振り返ったら、先生が悪いのではなかった。聴覚障がい者は耳からの情報が一切入らないので、そういう意味では視野も狭くなると思うんです。この経験をもとに、視野がどんどん広がって、「人が厳しくすることにも意味があるんじゃないか」と考えられるようになったんですね。
岡部:はい。それはもうパワフルでしたよ! 先生は陸上だけでなく、マナーや真面目さに対しての指導もしてくれました。今、自分が真面目すぎる性格になったのは、石垣先生のおかげでもありますね(笑)。
稲垣:石垣先生は、聴者とデフの人を区別していないですよね。「叱ること」ってすごくパワーがいる。そのパワーの源は「愛情」ですよね。叱るという行動によって、愛情のパワーをかけることで、対等に接していたように感じました。
岡部:今でこそ「パワハラ」などと言われてしまうかもしれませんが、石垣先生にはいつも、「きちんと最後まで、諦めないで頑張ろうと思えないんだったら、もうやめろ」と言われていました。厳しい言葉をかけられてつらい時もありましたが、家族もいつでも支えてくれたし、頑張って、努力をして、練習して、技術を磨いてやっていって、ひとつずつ壁を乗り越えた。それは間違いではなかったし、頑張ってよかったと思います。もし甘い先生だったら、デフリンピックを目指してなかったと思うんですよね。石垣先生のおかげで、僕はここまで来られたのだと思います。
それから、自分で言うのはおこがましいんですが、僕は努力家だと思うんです(笑)。勉強にしても、スポーツにしても、口話にしても、努力して覚えていって、性格も積極的になってきて、そして今の自分がいるんだと思います。