私が社会人生活の第一歩を踏み出した外資系メーカーでは、1980年代から「営業手当」という名のもとに、みなし残業手当が支給され、営業職は、時間外手当は一切申請しないという、暗黙の了解が成り立っていた。外資系とはいっても治外法権ではなく、労働基準監督署の管理下のもと、36協定も結ばれている。
残業代が出ないと知りながら多くの若手社員たちが夜遅くまで残業しており、午前0時を過ぎてからでもよく飲みに行ったものだ。それでも文句を言う社員など全くいなかったのは、インセンティブが明確になっていたからである。
残業している者は皆、上司から命令されたわけでも、残業代を稼ぎたいわけでもない。明確に設定された業績をあげるために、一人ひとりがやるべきことをしっかりと認識し、仕事に集中していたのだ。そこには時間を忘れさせるほどの活気があった。
今、日本企業に必要なのは、管理が必要な職場ではなく、管理する必要もない程に個々が自立した職場ではないだろうか?インセンティブが当たり前の外資系企業では、もう30年以上も前からそんな職場が成り立っているのだ。
前回記載した通り、日本において裁量労働制の導入はまだまだ進んでいない。よって、今回見送った法案が可決されたところで、運用や、社員のモチベーション低下を危惧するあまりに実行へ踏み切れないというところが実態なのではないか?
しかしながら、インセンティブ制度と同時に導入することができれば、社員一人ひとりのモチベーションを向上させ、企業側にも多くのメリットをもたらす驚くべき相乗効果が期待できると推察される。これこそが、労働環境の整備を終えた企業が、働き方改革を実現する切り札と言えよう。
インセンティブとは、個人の業績に対する報酬であり、本質的には、会社が赤字でも業績の高い社員には支払わなければならないものである。よって、会社側にはリスクが伴う。会社に多くの利益が出た時は皆が幸せになれるのだが、赤字になるケースも想定して、どれだけの原資を確保しておくかが、導入の最大のポイントとなる。
このインセンティブと裁量労働制を同時に導入することで、今まで無尽蔵に支払っていた時間外手当を原資の一部に充てることができるという仕組みが成り立つわけだ。残業時間が多い会社は、それだけで原資として十分成り立つかもしれないが、そうでない会社は、過去に支払ってきたコンテストや賞与の変動分なども原資の候補として考える必要がある。
では、原資としてどれくらい用意すればいいのか、ということだが、正解は存在しない。ここはあくまでも経営者の考え方と、現状どのような問題があってそれをどう改善したいのかという目的によって、やり方は何通りも存在するし、原資の考え方もさまざまだからだ。
ただし、いきなり“時間外手当を撤廃して、全てインセンティブに移行する”などというやり方は、社員の同意も得られないし、監督署も許さないだろう。そこで裁量労働制の導入に伴い、みなし残業手当を“裁量手当”という題目で一律に支給するのが、ベターな考え方だ。
残業時間は、社員間で大きな格差がある。全社員の残業時間を調査して、場合によっては、職種または所属部門等で、支給額や支給率を変える必要もあるかもしれない。残業時間の中にも、環境上やむを得ない時間と、自分の裁量で管理できる時間があるはずだ。前者を裁量手当として支給、後者をインセンティブの原資とするのが妥当な考え方である。
以前、労働局の「働き方・休み方改善コンサルタント」の先生からは、労働契約において、“裁量手当”の支給率を個別に合意するのが最も望ましい、というお話を伺ったが、人事部門や管理職にかかる負担を考えると、到底無理な話である。“裁量手当”の支給率は職位に応じて一律とし、インセンティブは職種や所属部門単位、最小でもグループ単位で柔軟に支給率を設定するというのが現実的ではないか。
私見ではあるが、“裁量手当”の幅は、時間外手当実績の30%から70%の間で設定するのが妥当ではないかと考える。何故こんなに幅があるのかというと、自己の裁量による部分の大小によって、“裁量手当”とインセンティブの比率を調整することが必要になるからだ。大きい場合は“裁量手当”を少なく、インセンティブを多くし、 反対に少ない場合は“裁量手当”を多く、インセンティブを少なくするのが、理にかなったやり方である。これで原資と配分方法の考え方はメドが立つ。
次に決めなければならないのは、予算枠だ。赤字でも支払わなければならないのは当然のこと、会社が多くの利益をあげたとしても、青天井でインセンティブを支払っていては、予想外に利益を圧縮してしまう場合もある。そこはしっかりとしたコントロールが必要だ。
まずはインセンティブの支給範囲を設定しなければならない。インセンティブの支給率は、基本給の12ヵ月分を基準額とし、目標に対する達成率に応じて、基準額に対するパーセンテージで設定するのが一般的である。支給範囲とは、個人が目標の最低ラインに達したときと、達成率の上限値に達したときに、それぞれ支給率を何パーセントにするかという支払の幅を設定することである。この最低ラインの支給率を対象者全員が達成したことを想定して、確保しておくべき額が最低予算ということになる。
例をとって説明すると、インセンティブ対象者の平均基準額(基本給の12月分)が600万円だった場合、インセンティブの最低支給率を仮に5%と設定したときに、対象者の500人全員がこれを達成すると、支給総額は以下の計算となる。
600万円×0.05×500=15,000,000円
これが、500人のインセンティブ対象者に対して、会社が確保しておくべき最低限の原資ということになる。もちろん、5%という支給額は最低ラインであって、目標達成率に応じて支給率は増えていかなければ対象者は納得しないだろう。
導入当初は、この最低ラインと“裁量手当”を削減された残業手当の範囲内に収めることで、会社側のリスクを最小限にとどめることができる。しかしながら削減額が少ないと、インセンティブとしては少々物足りない支給額になってしまうので、前年まで支給していたコンテストや賞与の一部を組み入れるといったことも考える必要があるだろう。
支給額が増える=個人の目標達成率が上がる、となれば、当然会社の利益が伴ってくるので、その利益の一部をインセンティブの足りない原資に充てればよい。予算としては前述の最低額を想定すればいいだろう。
大事なことは、“多くの時間を働いた社員が多くの報酬を得る”といった考え方を、“会社に対する貢献度が高い社員が多くの報酬を得る”というように、給与の配分方法を変えるという基本的なコンセプトである。そのため、明確な目標設定と達成度に応じた報酬を、予め対象者にはオープンにしておかなければならない。
社員の立場で考えると、最低ラインに到達したら、減った時間外手当分は最低限の要求額だろうし、上限は賞与の額よりは多くもらいたいと思っているだろう。賞与は出るのが当たり前と勘違いしている社員がたくさんいるが、本来賞与とは、決算時の業績が良かった場合にその利益を社員に還元するものであって、会社が赤字であれば出さなくてもいいものである。
それに対して、インセンティブは社員に必ずコミットしなければならない。賞与よりも優先して支払うべきものなのである。予算を大幅に上回った場合は、賞与の引当金を使ってインセンティブを支払うという方法も、場合によっては十分考えられる。これも経営者の考え方によるのである。
このように、インセンティブの基本的な考え方をご理解いただいたところで、次回は、目標設定と支給率の関係である“支給テーブル”について述べていきたい。
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