会社が潰れても正しい対応をしようと思った。
が社長に就任するきっかけとなったのは2002年7月の「国後島事件」、北方四島支援事業にからむ偽計業務妨害に発展した事件だった。北方四島支援事業の国後島でのディーゼル発電所の競争入札で、公正な入札を妨害したという容疑で、外務官僚2名と当社社員3名が逮捕された。捜査によって、三井物産が予定価格の99.9%の約20億円で落札したこと、競合する商社に入札参加の断念を働きかけるなどして公正な入札を妨害したという、偽計業務妨害の容疑をかけられた。また、その時の三井物産幹部の対応が、必ずしも適切ではなかった。
今であればトップ自らが矢面に立ちマスコミを通じて説明責任を果たすのが当たり前だが、当時の三井物産はトップを守ろうとした。「物産の常識、世間の非常識」という印象を残し、当社に対する印象は悪化、当時の経営陣は退任に追い込まれることになる。結果として同じ2002年10月に、私が社長に就任することになった。
当時は、「少々グレーな案件でも何とかうまくやるのが商社の腕だ」という空気があった。恥ずべきことだが、コンプライアンスの概念が極めて薄かったことは否定できない。
私は会社を変えるため、三井物産の経営理念(MVV:Mission, Vision, Values)を深く社員に浸透させ、またCEOメールや社長車座など、経営陣と現場のコミュニケーションをスムーズにする様々な改革を行った。これら諸施策を通じ、社内の風通しも良くなり、コンプライアンスにおける体制についてもそれなりに手応えを感じていたのだが、社長に就任して2年が経過した頃、なんと、またしても不祥事が起きた。
2004年11月に起きた、いわゆる「DPF問題」という事件だ。
当社が販売していたディーゼル車向けの粒子状物質減少装置(DPF)の申請時に、虚偽のデータが作成・提出され、基準値に達していない装置約21,500台が、全国9,000のお客様に販売されてしまった。
国後事件の対応に追われ、会社の改革を進めている時に、世間からの信頼を裏切るデータ捏造の行為が行われていたことを知り、私はショックを受けた。あきれ果てて「こんな会社やってられない」とまで思ったが、リーダーとして、たとえ会社が潰れても、どんなに費用がかかっても正しい対応をしよう、この事件を解決しよう、と決意した。
会社を上げて9,000のお客様すべてを特定し、お客様の要望をお聞きした上で、誠心誠意対応していくしか道はないと思った。最終的には総額で500億円、500名弱の部隊で対応に当たり、2年間ですべての始末を終えた。それは本当に大変な作業で、私にとっては忘れられない重たい事件だった。