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「人の三井」という考え方は、三井物産の創業期にまで遡る。
今回の講演テーマである「人の三井」という言葉の意味だが、ネットなどで調べると「優秀な人が数多くいる、個々の力量で勝負する」という説明がされている場合が多い。しかし、私はそうではなく、三井物産は創業時より「何より人材育成を大事にする会社」だという意味に解釈している。その意味するところを、創業期に遡って見てみたい。三井物産の創業者は、益田 孝(ますだ たかし 1848~1938年)という人物。益田の生きた時代は、欧米の列強にアジアの国々が暴利を貪られていた時代だった。益田は16歳の若さで「第二回の遣欧使節団」に参加する。フランスを訪問した益田は、日本とのあまりの違いに驚き、男泣きに泣いたという。プライドの高かった士族出身の彼は、まさに屈辱的とも言える格差を、異国の地で目の当たりにした。
「お国の為に、外商の手から貿易を取り戻したい」「国を豊かにするのは官ではなく、民の情熱・努力・感性だ」と考えた益田は、1876年(明治9年)に日本初の総合商社・三井物産の初代社長となった。
隣国の清の惨状を見ていると、不平等の状態を正すには、日本の商工業を先進国レベルに底上げしなければならない。そして自分の思いを実現するには、「人材育成」を最も急がなければならない。そう考えた益田は、「商売に学問は不要である」という当時の常識を覆し、幕府の学問所で高いレベルの教育を受けた人材を多く採用した。
明治初期においてはまだ、士農工商の身分制度の意識が強く残っていた。武士の出の新人たちに、丁稚のような和服を着せていろんな部署に配員したため、現場では相当混乱があったようだが、暫くすると、その新人たちの優秀さは評判になった。
益田は、武士の出を採用しただけではなく、さらに一歩踏み込んで、公の人材育成の場として、商法講習所(一橋大学の前身)の設立にも深く関与した。学問として商売を学んだ学生を、企業として責任をもって採用し、広く世界に活躍する場を与えなければならないという使命感を抱いていた。
若い人材にできるだけ早く世界を見せたいという思いから「海外修業生制度」もスタートさせた。16歳の益田の海外体験が動機だったと思うが、当時の会社経営にはきわめて負担が大きかったはずだ。それを乗り越えて、世界各地に学生を派遣した。しかも、彼らが帰国した後、必ずしも三井物産に留まることを求めなかった。明治期の三井物産は、「お国のために立派な人材を育成しよう」という強い思いを持っていたのだろう。