最近の傾向は「男女平等」の本筋から逆に遠ざかっている?
巷間、「男女平等」の具体的事象として、飲み代は割り勘、夫婦の生活費も割り勘、結婚しても家計は別会計で各々の貯蓄額には無関心、家事労働は竹を割ったように半々、などと旧世代の筆者には理解不能な関係性が散見される。何か形だけの平等主義のように見えなくもない。当事者たちの思いは真正なのであろうが、いかにも「平等っぽい」関係性ができあがりつつあるように思えてならない。うまく表現できないが、男女平等の本筋からは外れて、逆に遠ざかっているような気がしなくもない。「男女共同参画社会基本法」によると、男女共同参画社会とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」であると規定されている。
少なくとも、身体的、生理学的な部分は当然のごとく異なるわけであるから、男女に違いがあることを踏まえないで、何でもかんでも「平等」というのは無理筋である。闇夜の夜道を女性が歩くのは嫌だろうし、エレベーターの中で女性が男性に声をかけられたら、これも然りだ。しかし、これらも男女が逆だったら全然平気なはずである。また、陸上競技やほとんどのスポーツは男女別で行われているのも身体的性差を勘案した結果だろう。
東洋とは根本的に“遺伝子”が異なる欧米の女性
筆者は海外、特に欧米に渡航するたびに感じることがある。初めて渡航したのが、ドイツ(旧西ドイツ)、スイス、オーストリアだったが、女性の力強さに圧倒されたものだ。男女平等の歴史的・思想的素地が違うという話ではない。とにかく、体も声も大きいし、強くて逞しい。東洋の女性とは、まるで遺伝子が異なるのである。次に渡航したイギリスやフランスでも全く同様だった。日本の男女平等の思想は、このような欧米に源があるから、そのまま移植してきても無理があるように思う。残念なことであるが、国内には男女差に限らず、あらゆるレイヤーで差が存在する。職業、収入、家、容姿、体格、学歴、出身地……などなど。この現実を踏まえれば、闇雲に男女平等を叫ぶのではなく、差があることを認識したうえで、「どういう考え・対策を施せばより差を埋めることができるのか」という発想をしなければならないのではないだろうか。
改めて本来の「男女平等社会」とは如何なる状況かを考えてみよう。それは、性差が存在することを前提に各々の性格や特性、得手不得手を理解し、男女というより「人間としての個性」を尊重することが出発点にならなければならない。つまり、「女=男」ではなく、「(女-男)×補正係数=0(男女が逆でも同じ)」という等式が成り立つように知恵を絞るべきなのかな、と思う。これによって、初めて男女平等社会に近づくのではないだろうか。
男女平等を実現するのは「思いやり」の気持ちと行動
そして、この「補正係数」を考えるヒントは、筆者は「思いやり」ではないかと仮説を立てている。男性だったら誰でも経験する買い物の荷物持ちやゴミ出し、女性ならではの糊の効いた布団のシーツ替えや繊細な料理の盛り付け、などは「思いやり」の表れだと思うのだ。その「思いやり」を通してこそ、「男=女」の等式に近づくと言えよう。本稿を認めながら、頭に浮かんだのが2014年5月に初めて寄稿したコラムだ。「社会保障制度に頼りすぎるのも考えもの?」というお題で、社会保障制度の充実したスウェーデンの状況を紹介している。そこに、次のような一文を記していた。
「また、スウェーデンは、なかなか車が停まってくれず、ヒッチハイクをしにくい国としても有名だと聞いたことがある。彼らは、「困ったことがあったら警察などの公の機関に助けを求めればいい。そのために、自分たちは高い税金を払っているんだ。」と考えるようで、物事をお金で解決する合理的な発想の持ち主なのだ。彼らにしてみれば、国の枠組がそうなっているので、至極真っ当な生き方なのである。」
もしかしたら、現在の日本も北欧の国々のような人心に変換されつつあるのかもしれない。筆者の捉え方が正しいかどうかは別にして、男女が相互にリスペクトし、「補正係数」を発揮することは、現代社会には必須ではないだろうか。
日本社会、とりわけ企業社会ではまだまだ「男女平等」にはほど遠い。「女性活躍推進」という政策を推進する前に、個々の生活者としての男女が相互に「思いやる」気持を持ち、それを行動に移していくことが必要不可欠なのではないかと考えている。
●社会保障制度に頼りすぎるのも考えもの?
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