ドイツ人実業家 スネル兄弟に出会う
1868年10月11日にマルセイユ港を出帆した渋沢栄一たち一行は、順調な航海をつづけて12月16日に横浜に到着した。ここからふたたび年月日を和暦で示すことにすると、この日は明治元年の11月3日である。航海の間、栄一は寄港地から乗船してくる人々から日本に関する風説を聞き出すことに努めた。その栄一は、香港へ着港したときに初めて、それまで籠城戦によって新政府軍と戦いつづけていた会津藩がすでに開城・降伏したことを知った。会津藩の籠城戦開始は、慶応4年(1868)8月23日。9月8日に慶応という元号は「明治」に改元され、会津藩が降伏したのは9月22日のことであった。
また、やはり香港では旧幕府軍副総裁・榎本武揚が旗艦「開陽丸」のほか「回天丸」「朝陽丸」「長鯨丸」「美加保丸」など旧幕府所有の艦船を率いて蝦夷地(北海道)へ脱出したことも知った。
「これはいかなる軍略に拠ったものであるかすこぶる解し兼ねる次第であると思いながら上海へ来てみると、同処の旅館にドイツ人のスネールと長野廉次郎とが止宿していた」(『雨夜譚』)
一般に「スネル兄弟」といわれるプロシャ出身の武器商人の、兄はヘンリー、弟はエドワルド。ふたりは仙台・米沢両藩を盟主として会津藩救済のために発足した奥羽越列藩同盟を支援。横浜から大量の武器をチャーター船で新潟へ運んだことによって知られ、長岡藩家老・河合継之助(つぎのすけ)がスネル兄弟から機関銃の原型・ガットリング機関砲を2門買いつけたことは有名である。
ヘンリーは会津藩の若松城下(福島県会津若松市)に屋敷を構え、同藩の事実上の軍事顧問となって松平容保(かたもり)から「平松武兵衛(ぶへえ)」という名を与えられていた。一方のエドワルドは会津藩の戦況が不利になったと見て、さらに同藩に武器を供給するため上海へ渡航していたのだ。
エドワルドの同行者・長野慶次郎は、ただしくは桂次郎。26歳の旧幕臣で、万延元年(1860)、遣米使節団に英語の見習い通訳として同行。アメリカではその可愛らしさから「トミー」と呼ばれて人気者になり、「トミーズ・ポルカ」という曲さえ出来た。その後、歩兵頭並として、幕府の瓦解に立ち会った桂次郎は、エドワルド・スネルに通訳として同行していたのである。
上海にて戊辰戦争最終局面と蝦夷独立の動きを知る
桂次郎と栄一は以前からの知人であったので、桂次郎は寄港した徳川昭武に栄一が随行していると知ってすぐにエドワルドとともに会いにきた。会津はすでに落城したと香港で聞いたが、実説か。栄一がそうたずねると桂次郎は、「その確報はまだ得ぬ。しかしながら仮会(たとい)落城したからといっても残党が多くあるから、是非一度は挽回せんければならぬ。またこのスネール氏などは外国人ではあるが(奥羽越列藩同盟に)真に力を入れて居る」(同)と答えて、意外なことを提案した。
「すなわち民部公子の進退で(あるが)、今直(ただち)に横浜へ御帰りにならずに、ここから直に箱館へ御連れ申して、箱館に雄拠して居る海軍の首領としたならば、一体の軍気も大いに張るであろう、是非ともこの事に同意あるように」(同)
蝦夷地へ脱走した旧幕府軍は、この10月中に箱館五稜郭(ごりょうかく)を政手とする「事実上の政権(オーソリティー・デ・ファクト)」を樹立し、諸外国もこれを認めていた。その総裁に推された榎本武揚に、日本から分離独立しようという野心はない。新政府軍が皇子のだれかを赴任させてくれれば、これを主人として旧幕臣たちが自分たちの手で生活できる属国を作りたいと考えていた。
栄一に、かつて尊攘激派を率いて横浜を焼き討ちすると考えた頃の血の気の多さがまだ残っていたら、この誘いに乗って徳川昭武と箱館へ直行する気になっていたかもしれない。しかし、2年近くにわたってヨーロッパ諸国を視察する間に万事を老成したまなざしで眺めるようになっていた栄一は、調和型の性格でもあったから、自分の任務は水戸藩主の座を約束されている昭武を無事に帰国させることだと思い、桂次郎の提案を断固拒否して横浜へ帰ってきたのであった。
恩人・知人たちとの永訣
翌日、横浜の友人に会って箱館の様子を聞いてみると、何と従兄の渋沢成一郎も蝦夷地政府軍に参加しているという。成一郎は京で栄一と別れてから将軍慶喜に気に入られ、幕府の陸軍奉行支配調役や奥右筆を歴任。旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れて東帰してからは、寛永寺の大慈院に入って謹慎した慶喜の身辺警護のため彰義隊を結成し、その頭取となった。しかし、成一郎は次第に副頭取の天野八郎(上州甘楽郡〈かんらごおり〉岩戸村の庄屋の次男)と対立。慶応4年4月11日、江戸は無血開城となり、慶喜が水戸へ去ってゆくと、成一郎と彰義隊の一部は松戸まで一行を見送って同隊を脱退し、「振武軍」と称して江戸脱走軍に属した。しかし新政府軍と飯能(はんのう)に戦って敗北したため、北上途中の旧幕府海軍に合流。彰義隊と振武軍を合わせて彰義隊を再編し、その頭となっていた。
そこで栄一はにわかに蝦夷地政府の行く末を案じはじめたが、その陸海軍は自重策を採るばかりで軍略的におぼつかない。五稜郭入りした大鳥圭介(旧幕府歩兵奉行)、松平太郎(おなじく陸軍奉行並)、永井尚志(なおゆき/おなじく若年寄)、小笠原長行(ながみち/唐津藩世子〈せいし〉、老中)などにしても、しょせんは烏合の衆であるから勝利を得ることはできない。そう考えた栄一は、箱館へ書状を送ることができると知り、成一郎宛に書き送った。
「せっかく久々の面話を楽しみに帰国した処が、貴契(きけい/貴兄)も箱館行だと聞いて誠に失望して遺憾千万である。【略】今日の形勢ではもはや御互いに生前の面会は望み難いことであるによって、この上は潔く戦死を遂げられよ」
それから2、3日、マルセイユから別便で送り出した荷物の受け取りなどをして、栄一は「東京」と改称されていた江戸へもどってきた。一連の戊辰戦争によって、あの友人は江戸を脱走した、親戚のだれそれは死んだなどと状況が以前とはひどく変化している。そこで、まずかつての同志で伝馬町(てんまちょう)の牢獄に入れられたところまでしか承知していない尾高長七郎のその後について調べてみると、その後出獄はしたが、栄一の帰国する前に死亡したとのこと。
その弟の平九郎は、栄一がフランス出発前に「見立て養子」、すなわち万一客死した場合の相続人に指名しておいた者であったが、平九郎ももはやこの世の人ではなくなっていた。栄一の師でもある兄の尾高新五郎惇忠(あつただ)とともに成一郎の誘いで振武軍に入った平九郎は、飯能に近い黒山というところで討死したのだという。
ほかに自分を昭武の随行員に選んでくれた原市之進がすでに鬼籍に入っていると知ったことも、栄一には衝撃であったろう。市之進は慶喜側近として兵庫開港を実現に導いたことから奸臣とみなされ、昨年8月14日、自宅で結髪中に幕臣鈴木豊次郎と依田雄太郎に殺されたのであった。
この年の5月24日、新政府は田安亀之助改め徳川家達(いえさと)に対し、徳川家の領地は駿河府中70万石とする、と布達していた。そのことをいつ栄一が知ったのか、という記述は『雨夜譚』に欠けているが、親しかった人々のたどった運命を知ったあと、かれが向かったのは父・市郎右衛門(いちろうえもん)のもとであった。
父に「理財家」としての一面を披露する
まだパリに滞在していて所持金の残りに不安を感じた際、渋沢栄一は父に送金を依頼して承諾の返事をもらったことがあった。実際に送金してもらう前に帰国できはしたが、異国にあって肉親からこのような返事をもらうほど心強いことはない。栄一は感謝の思いを伝えるためにも一度里帰りしなければ、と考えたのであろう。なにしろ栄一は、文久3年(1863)の冬に血洗島村を去ってもう丸5年なのである。思いは市郎右衛門もおなじであったのか、12月中旬、みずから東京の栄一の宿を訪ねてき、父子はひさしぶりの対面を果たした。市郎右衛門としては、一橋家臣、幕臣、ヨーロッパ大旅行と輝かしいキャリアを経た栄一が旧幕府の瓦解とともにまた父を頼る身となったことを案じたらしく、「これから先はまずいかように身を処する覚悟であるか」(『雨夜譚』)とたずねた。栄一は慶喜がこの7月に水戸から駿河へ移ったことをすっかり承知していたようで、下のように答えた。
「今から箱館へいって脱走の兵に加わる望みもなければ、また新政府に媚(こ)びを呈して仕官の途(みち)を求める意念もありません。せめてはこれから駿河へ移住して、前将軍家が御隠棲の側(かたわら)にて生涯を送ろうと考えます。それとても彼(か)の無禄移住といって、その実は静岡藩(正しくは駿河府中藩。静岡藩と改称されるのは明治2年)の哀隣を乞い願う旧旗本連の真似は必ずいたしませぬ。別に何か生計の途を得て、その業に安んじて余所(よそ)ながら旧君の御前途を見奉ろうという一心であると告げた処が、父もやや安心の様子であった」(同)
江戸時代初期以降、武士階級の者たちは「武士は二君に仕えず」の理念を最高の徳目と信じて生きてきた。だから栄一は、なおも慶喜に仕えようとしたのである。すると市郎右衛門は、栄一が手許不如意だと思ったのだろう、いささかながら金子を持参した、といってそれを栄一に手わたそうとした。その時の栄一の答えはまことに奮(ふる)っていた。
「その御心配を受けるには及びませぬ。実は京都において一橋家に勤仕の時から深く節倹を心掛けて、少額ではあるけれども余財を生じ、またフランス滞在中も、公子(昭武)の随従であったから別に自分の経費はなし、毎月の給料から自分の衣服を作るばかりでそのほかの費用は勉(つと)めて倹約して残して置きましたから、別に自下の窮困(きゅうこん)はありませぬ。【略】先頃仏国から書面も以て送金の事を願いましたのは、公子を長く彼地(かのち)に留学させ申すにはその経費が少し不足であろうと掛念(けねん)したからの事でありました」(同)
明治維新後に作られた日本語のひとつに、「理財」ということばがあった。これは金銭や財産を有利な結果を得るように取り扱うことであり、「理財家」といえば財貨の運用に巧みな人のこと。フランス帰りの栄一は、まず父にむかって自身がなかなかの理財家に育っていることの一端を示したのである。
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