中小企業が人的資本開示に取り組むべき理由(1)「法令への対応」
これまでに我が国では現時点で人的資本情報の開示に関する2つの大きな指針が示されています。1つ目は、2022年8月30日に公表された内閣官房・非財務情報可視化研究会による「人的資本可視化指針」です。
指針では、「開示が望ましい項目」として、「リーダーシップ」、「育成」、「スキル/経験」、「ダイバーシティ」、「賃金の公平性」などの19領域が示されました。また、各領域の開示項目については、それが自社の企業価値向上につながる指標なのか、企業の経営リスクを管理するための指標なのか、また、他社との比較で評価すべき指標なのか、企業独自で評価すべき指標なのかを検討すべきであるといった考え方が示されています(図表1)。
この指針には、企業が測定すべき指標は具体的に指示されておりません。ここで重要なのは、指針を参考にしながら企業がそれぞれの業態や戦略に沿うものを選び、明確な目的をもって運用すべきという点なのです。
この点については経営者である以上、大企業も中小企業も関係ありません。むしろ、より過酷な競争状況にある中小企業こそ、自社の戦略を明確に絞り、その達成向けて企業の諸活動をそれに向けて集中させるべきでしょう。
図表1「開示項目の階層(イメージ)」
出所:非財務情報可視化研究会(2022)「人的資本可視化指針」
具体的には、有価証券報告書等に、「サステナビリティに関する考え方及び取組」の記載欄が新設され、人的資本に関する戦略並びに指標及び目標について記載することとされています。
上記は有価証券報告書等の作成が義務付けられた企業に課されたものですが、2022年4月から施行された改正女性活躍推進法では、常用労働者数が101人以上の事業主に対して行動計画の策定が求められるようになりました。
行動計画では「採用した労働者に占める⼥性労働者の割合」、「男⼥の平均継続勤務年数の差異」、「労働者の⽉ごとの平均残業時間数等の労働時間」、「管理職に占める⼥性労働者の割合」を把握することとされています。さらに、同法の2022年7月8日の改正では、事業主は常用労働者数に応じて各事項の情報開示が求められるようになりました(図表2)。
図表2「女性活躍推進法が一般事業者に開示を求める項目」
出所:CHROFY株式会社資料をもとに筆者作成
現時点では100人以下の企業は努力義務です。しかしながら、いずれ義務化されたときに5年前にさかのぼって各種指標を測定するのは結構大変な作業になります。今のうちから対応しておけば、将来の行動計画策定への対応はもとより、自社内の限りある人的資本を最大限に活用することができるでしょう。
中小企業が人的資本開示に取り組むべき理由(2)「大企業との取引」
次に大企業が取引先を選定する際の選定基準の潮流について考えてみましょう。企業のESG (Environment:環境、Social:社会、Governance:管理体制)への取り組みを重要視する投資家の増加に伴い、大企業を中心とした多くの企業がESG経営を強化しています。
その取り組みの1つに、CSR調達があります。CSR調達とは、企業がモノやサービスの調達に際して、以前はQ(Quality:品質)・C(Cost:価格)・D(Delivery:納期)が中心だった調達基準に加えて、法令・社会規範の順守といった調達基準を加え、それらすべてを満たす企業の中から取引先を選定する動きです。
例えば、三菱ケミカルグループでは、調達先に対して、「人々の多様性の尊重」、「従業員が安全で心身ともに健康にその能力を最大限に発揮できる環境」、「人材を活かす経営の実施」を求めています。また清水建設でも、「従業員の多様性・人格・個性の尊重」、「人種・宗教・国籍・年齢・性別・性自認・性的指向・障がいの有無その他による差別、個人の尊厳を傷つけるハラスメントの禁止」、「児童労働、強制労働の禁止」、「従業員の労働時間・休日・休暇の適切な管理」を求めています。
こうした動きは今後ますます拡がっていくことと思われます。中小企業が大企業と取引をするためには、彼らが求める基準を満たしていることを証明するために人的資本情報の測定と開示が必要になるのです。
中小企業が人的資本開示に取り組むべき理由(3)「人材の採用」
仕事を探している人にとって、働きやすい職場かどうか、自分が成長できる会社かどうかは重要な判断材料です。一般的に、中小企業は労働時間が長い、賃金が安い、研修制度が整っていない、というイメージを持たれがちです。確かにそれらすべてを今すぐ大企業並みにするのは難しいかも知れません。しかしながら、よく考えてみると、中小企業には大企業にはない魅力が存在したりもします。そうした人的資本情報を測定・開示することによって、自社の考え方に賛同した従業員を採用することができます。中小企業が大企業と比べて有利なのは、経営者との距離が近いことや社内の風通しの良さ、従業員1人ひとりに目を配った対応ができることでしょう。例えば、「リーダーシップに対する信頼の高さ」という指標では、上司と部下の関係性の良好さを表せます。他にも、「従業員のエンゲージメントレベル」という指標で社内の人々の絆の程度を、「1on1(ワンオンワン)実施率」、「研修受講率」、「従業員1人当たりの研修受講時間」では、上司がいかに部下を育てようとしているかを表すことができます。
それでもまだ、人的資本の測定と開示は、情報の蓄積や収集のためのITシステムやスタッフを持つ大企業に限られると思うかもしれません。しかしそれは間違いです。最近では、人事情報をあらかじめ設計されたフォーマットにインプットすれば、その集約データをもとにして各種の人的資本指標がアウトプットとして出てくる、といったサービスも生まれています。
本稿でご説明したように、人的資本を測定し、その結果に基づいてPDCAを回す経営は、企業に継続的な成長をもたらすばかりでなく、中小企業が取引先として、勤務先として選ばれることにもつながるのです。
より詳しく、人的資本の測定と評価、開示の指標について知りたい方は、拙著『人的資本経営のマネジメント 人と組織の見える化とその開示』(中央経済社刊)で解説していますので、ぜひご覧ください。
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