今日のビジネス社会では、物事をうまく・はやく・儲かるようにつくる追求をしてきました。しかしこの先にある組織・社会は、長ける者と長けざる者の分離が貧富の差へと形を変えて進み、個も全体も幸福にしないことが明らかになりはじめました。新型コロナ後の世界は、より一人ひとりの「内なる律」による軌道修正が必要になってきているのではないか――今回はそんな観点から、あらためて「成長」ということ、「仕事・事業における精神性」というものを考えてみたいと思います。
新型コロナ後の世界をつくるもの――「成熟の心」が「成長欲」をどう制御するか

このコロナ禍から何を引き出すか?

私はいま、自宅のベッドで横になっています。昨日、モデルナ社製ワクチンの2度目の接種を行い、案の定、副反応で37度後半の熱が続いているためです。ワクチンによる発熱ということがわかっているので落ち着いて寝ていられますが、これが本物のコロナウイルス感染によるものであったとしたらどうでしょう。不安は底知れないものになっていたでしょう。

熱にうなされながら、いろいろなことを考えます。このコロナ禍は地球という1つの生命体がその健全な存続のために、内部に宿した人類という“病原菌”の数を減じにかかるためのものではないか。実際のところ、このコロナ禍で航空機の使用が激減したために、世界中で本来の空の色が戻ってきたという報告があります。地球自身にとってみれば、再び健全に息ができるようになり一安心といったところでしょうか。

しかし私たちは、この新型ウイルスの拡大をワクチンと治療薬で収束に向かわせ、その後はまた経済再生の大号令のもとに、化石燃料を燃やし、自然を開発し、ゴミを出し、人流を活発化させる動きに戻ろうとしています。経済を回すことは大事なことであるにせよ、私たちはこのコロナ禍から何をメッセージとして引き出すべきなのでしょう。……と折しも、テレビでは、米国東部を襲ったハリケーンが大洪水を引き起こしているニュース映像を流しています。

個々の人間、個々の企業、個々の国が、みずからの利益や快楽を最大化するように無分別に動き、負のコストを外部化するといった形の繁栄は、いよいよ無理がきています。そうした動きを外的な規制や法律で対症療法的に済ませること以上に、1人1人の「内なる律」による軌道修正が必要になってきているのではないか───きょうはそんな観点から、あらためて「成長」ということ、「仕事・事業における精神性」というものを考えてみたいと思います。

「知・情・意」が偏り歪んだ状態で欲せられる成長の危険性

私たちはいつしか成長や開発、進歩といったものがすべてよいことであると信じ、常に右肩上がりの変化を自分たちに迫るようになっています。しかし、経済の成長を維持させようとすればするほど、マネーは膨張を続け、貧富の格差が開くという皮肉が生じています。自然を開発して人間の便益をつくり出そうとすればするほど、地球環境問題は大きくなっていきます。科学技術を進歩させればさせるほど、兵器転用や生命のゲノム操作などきわめて重大な問題を危惧せねばなりません。

私たちの活動は本来、人間の根源的な精神のはたらきである「知・情・意」の3つが深く融合し、相互に牽制しあうことで健全な活動となりえます。ところが昨今は、功利を過剰に追う「知」と、快楽を際限なく求める「情」とが組み合わさり、バランスを大きく崩しています。知・情・意が偏り歪んだ状態で欲せられる成長は、よからぬ暴走を生みます。そして実際、成長信仰がもたらす負の結果に多くの人が気づきはじめました。

「成熟」の人は健やかな意志に基づいて「あえてそれをしない」

そんなときに大切になってくるのが、「成熟」というありようです。成熟した人は「できるのに、あえてそれをしない」「選べるのに、あえてそれを選ばない」「もっと取れるのに、あえてそれ以上取らない」ことをします。さらには、待つこと、捨てること、離れることができる。それらは、決してやせ我慢などではなく、健やかな意志からくるものです。東洋の思想が教える「断捨離(だん・しゃ・り)」や「知足(ちそく)=足るを知る」は、まさにこの成熟した精神の振る舞いを言ったものです。
新型コロナ後の世界をつくるもの――「成熟の心」が「成長欲」をどう制御するか
自制は人間形成のひとつの深化プロセスです。自制は禁欲であり、ガマンであり、成長を逃す野暮な態度であるという見方もありますが、それは狭い見方です。「成長への強迫観念」を超えて、勇気をもって自制を行うと、しゃかりきになって何もかもを増やさなきゃいけない、伸ばさなきゃいけない、そうする自分が格好いい、そして周囲から認められたいという固執からむしろ解放されるでしょう。それは自分の気持ちを落ち着かせ、別次元からの深い知恵と決意を生むことにつながります。

1人1人が、組織全体が、社会全体が、自己の内に「成熟」を呼び込めるか、ここがコロナ後の世界をつくっていくひとつの分岐点になると言ってもよいでしょう。

人の精神性は「欲する」中に最も表れる

その人のこころのありようや性向を「精神性」といいます。「高い精神性が宿る作品だ」「その仕事には精神性が感じられない」というように、私たちが仕事や生き方に対して精神性を言うとき、暗黙のうちに崇高さや厳格さ、品位、霊性といったものを問うています。

人の精神性は「欲する」中に最も表れるのではないでしょうか。下図に描いたように、「欲する」には、量的・質的に増していく方向と、理念的に昇華していく方向があります。精神性は欲求や欲望には宿ることなく、祈りや誓いに宿ります。
新型コロナ後の世界をつくるもの――「成熟の心」が「成長欲」をどう制御するか
身体にせよ、生活・社会にせよ、生存のための不足・欠乏が起こると、私たちは最低限必要な量・質を求めます。それが欲求です。動物は必要分を満たしたら欲求をやめます。しかし、人間は「もっと、もっと」となります。これが欲望です。

欲求満たしから欲望満たしへ。これは言ってみれば、自分の能力を「数量の獲得」に使う生き方です。資本主義という経済システムはこの生き方と相性がよく、多くの人はこの一本道をひた走る/走らされることになります。

しかし中には、自分は「数量の獲得」のみに生きる存在ではないと感じる人もいます。その人は欲を祈りに変換していく人かもしれません。そこには能力を「誓いの成就」に使う生き方があります。
新型コロナ後の世界をつくるもの――「成熟の心」が「成長欲」をどう制御するか

樹木のいのちと引き替えに創造を行うことの心の痛み

さて、祈りや誓いを伴った働きぶりとはどういうものでしょうか。ここにその2人を紹介します。

西岡常一さんは1300年ぶりといわれる法隆寺の昭和の大修理を取り仕切った宮大工の棟梁です。彼が材料となる樹齢1000年超の檜(ヒノキ)について触れたのが次の言葉です。

これらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです。こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。千年の木やったら、少なくとも千年生きるようにせな、木に申し訳がたちませんわ」。
───西岡常一『木のいのち木のこころ 天』より


次にもう1人は染織作家で人間国宝の志村ふくみさんです。淡いピンクの桜色を布地に染めたいときに、桜の木の皮を剥いで樹液を採りますが、春のいよいよ花を咲かせようとするタイミングの桜の木でないと、あのピンク色は出ないのだと言います。

「結局、花へいくいのちを私がいただいている。であったら裂(きれ)の中に花と同じようなものが咲かなければ、いただいたということのあかしが……。自然の恵みをだれがいただくかといえば、ほんとうは花が咲くのが自然なのに、私がいただくんだから、やはり私の中で裂の中で桜が咲いてほしいっていうような気持ちが、しぜんに湧いてきたんですね」。
───志村ふくみ 梅原猛対談集『芸術の世界 上』より


これらの言葉の中には、生命(いのち)に対する慈しみや、それを断つことへの痛みがあります。抗しがたく湧き起こってくる創造欲を祈りや誓いに変換している表現者の姿があります。

こうした仕事の中の祈りや誓いは、職人や芸術家など、ごく一部のものだととらえる向きもあるかもしれません。また、祈りや誓いといったようなフワフワした観念を現実のビジネス競争の中に取り込むことは、足手まといとなり、事業の存続や雇用の継続に悪い影響が出るといった意見もあるかもしれません。しかしその考え方がまさに「知・情・意」のバランスを失った思考状態です。

古代ギリシャから中世ヨーロッパに至る流れの中では、職業が哲学や神とつながっており、「プロフェッショナル(=神に誓いを立てた)」と呼ばれる人びとは、徳を施すという大目的のもとに職業上の知識や技能を用いるという意識でした。

ビジネスはスポーツ化し「精神のない専門人」が自惚れる

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは、いまから100年以上も前に著した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で次のように書いています。

「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない」


彼の見立てはまさに現実のものとなり、いまやビジネスや仕事は、数量(利益額やシェア、定量化された価値など)を獲得しあうスポーツあるいはゲームになりました。獲得された数量はお金と直接的に結びついており、それが欲望を際限なくふくらませもします。

そうしたいびつに発達した資本主義経済の末期に跋扈し自惚れるのは誰か───ヴェーバーは同著の最後の箇所で、それは「精神のない専門人、心情のない享楽人」だと喝破しました。

欲や能力をどんな目的につなげるか

欲自体は悪いものではありません。知識や能力もそれ自体は善悪どちらでもありません。資本主義というシステムも、お金という道具もしかりです。それらがどんな目的と結びつくかによって、よいものにも悪いものにもなりえます。それを統御するのがまさに精神性といえるでしょう。

今日のビジネス社会では、物事をうまくつくる、はやくつくる、儲かるようにつくることが至上命題になっています。いわば「長けた仕事」の追求です。しかしこの先にある組織・社会は、長ける者と長けざる者の分離が貧富の差へと形を変えて進み、個も全体も幸福にしないことが明らかになりはじめました。

経済的ものさしから外れ、欲望から外れたところでなされる「豊かな仕事」「健やかな仕事」「祈りの仕事」「誓いの仕事」が、「長けた仕事」に負けないくらい多様に生まれる余裕ある社会の実現。それこそが精神性のある社会といえそうですが、その壮大な取り組みはほかならぬ今後の私たちに課せられています。

コロナ後の世界、そして脅威が年々増す地球の環境・気候問題についてどう行動を起こしていくか。その根本の鍵は、私たち1人1人が「成熟の心」をもって「成長欲」を賢く制御できるかだと思います。

(執筆者:村山 昇)

※本記事は『GLOBIS 知見録』に掲載された記事の転載です。
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