仕事に必要な能力開発は労働者主体で考え、実行する時代
2016年、職業能力開発促進法が改正・施行された。大きな特徴は、労働者に職業生活の設計(キャリアプラン)と能力開発について自ら責任を持つよう促し、企業には従業員に対するキャリアコンサルティングの機会確保と能力開発の支援を求めたことにある。いわゆる“セルフ・キャリアドック”が義務付けられた。従来型の人材育成は、一応は本人の意思を確認しつつも、人事評価・考課をベースに、昇進やジョブローテーション、新たな職務・職場に必要な研修などが企業主体で進められていた。これに対してセルフ・キャリアドックは、従業員主体となってキャリア形成を進めるものだ。厚生労働省の資料『「セルフ・キャリアドッグ」導入の方針と展開』(※1)には、「企業がその人材育成ビジョン・方針に基づき、キャリアコンサルティング面談と多様なキャリア研修などを組み合わせて、体系的・定期的に従業員の支援を実施することを通じて、従業員の主体的なキャリア形成を促進・支援する総合的な取組み」とある。
セルフ・キャリアドックのモデル企業としてたびたび紹介されるのが味の素だ。同社では法改正以前からキャリアコンサルティング要員の充実や研修・キャリア開発講座の整備を順次進め、現在では、新人研修、フォローアップ研修などの「階層別プログラム」、通信教育やe-learningなどの「選択型プログラム」、次世代経営人財や各部門リーダー候補向けの「グローバル&グループプログラム」という3段階の能力開発プログラムを用意。その他さまざまな施策が評価され、「第5回 日本HRチャレンジ大賞」では大賞(※2)に輝いているのである。
セルフ・キャリアドック導入に必須なのは意識改革と働き方改革
ただ、すべての企業がセルフ・キャリアドック導入に意欲的とは限らない。厚生労働省の平成30年度『能力開発基本調査』(※3)によれば、正社員に対してキャリアコンサルティングの仕組みを導入している事業所は44.5%と半分に満たないのが実情。また従業員の能力開発を「企業主体で決定」および「それに近い」としている事業所が計77.4%なのに対し、「労働者個人主体で決定」と「それに近い」は計21.3%。セルフ・キャリアドックは「労働者が主体・企業はサポート」が本来あるべき姿だが、そうなっていないのだ。同調査によると、企業がキャリアコンサルティングを行っていない理由としては「労働者からの希望がない」がトップ。労働者の側が「仕事・家事・育児が忙しくて自己啓発の余裕がない」「費用がかかりすぎる」といった悩みを抱えており、能力開発に踏み出せないという背景も調査結果からうかがえる。
こうした事実を問題視してか、政府は全国5か所に拠点を設置し、セルフ・キャリアドック導入のサポート事業を推進。厚生労働省作成のパンフレット『「セルフ・キャリアドック」導入の方針と展開』においては、「セルフ・キャリアドックの意義について理解を促し、円滑な導入に向けた社内の意識醸成を図ることが重要」と説いている。
セルフ・キャリアドックの意義は、単に“労働者自身による職業生活の設計と能力開発”ではなく、その先にある。従業員のモチベーションとエンゲージメントの向上、上司・部下間の対話促進と関係改善、離職率の抑制、出産・育児・介護による休職後の復職率アップ、シニア層の活躍とワークライフバランスの充実……。これらの実現によって生産性を上げ、誰もが快適に働けて長期的に能力を発揮できる社会を作る。それがセルフ・キャリアドックの目指すところだ。
味の素は『キャリアデザイン ハンドブック』を全従業員に配布するなどして、セルフ・キャリアドックの意義を社内に浸透させてきた。さらにフレックスタイム、テレワーク、ノー残業デーなどの導入、ペーパーレス化推進、休職制度の拡充といった働き方改革によって労働時間の短縮を実現し、従業員が自己研鑽に充てる時間を創出。こうした地道な取り組みが同社の成功を支えているといえる。
他の企業でも、経営陣や人事部門がリーダーシップを発揮し、従業員の意識改革と働き方改革を同時に進めて、能力開発に意欲と時間を割くことのできる就労環境作りを実現すべきだろう。自己研鑽・能力開発のための費用補助も必須だ。
セルフ・キャリアドック成功のカギを握るキャリアコンサルタント
セルフ・キャリアドックを成功へと導くうえで、キャリアコンサルタントの重要性も忘れてはならない。キャリアコンサルタントは、学科試験(関係法令やキャリアコンサルティングの理論、職業倫理など)と実技試験(論述、面接)の両方に合格し、厚生労働省に登録することで、初めて名乗ることが許される“名称独占”の国家資格。これも2016年の法改正で新たに創設されたシステムで、キャリアコンサルティングに関する講習を修了した者や、職業生活設計・職業能力開発の相談に関して3年以上の実務経験を持つ者でないと受験できない旨も定められている。セルフ・キャリアドックにおけるキャリア面談では、労働者の主体性を引き出さなくてはならず、従来型の面談とは求められるスキルが異なる。また従業員の希望や資質に応じて多様な研修や能力開発講座などをアレンジする必要もある。そうした技術を身につけた者こそがキャリアコンサルタント。いわば国が認めたキャリアコンサルティングの専門家である。
企業側としては、キャリアコンサルタントを招聘して従業員との面談に参加してもらう、というのがひとつの方策だが、社内キャリアコンサルタントの確保、コンサルティングから能力開発までを専門に担当する部署の設置、すなわち人材とインフラを整備することが、より効果的だ。
味の素でも社内キャリアコンサルタントの育成に注力。グループ内で人事・教育に携わるメンバーは早くも2014年に「キャリアカウンセラー養成講座」を修了し、現在、キャリアコンサルタント有資格者は社内に30名程度在籍している。さらに同社では、社外講師の招聘、ロールプレイング、グループワーク、社員面談後の意見交換など、キャリアコンサルタントのスキルアップにも恒常的に取り組んでいるという。
もちろん、教育研修費用に毎年5億円を投じている味の素と同等の施策・方法論を他の企業が模倣することは難しい。事実、前述の『能力開発基本調査』によるとキャリアコンサルタントを導入している企業はわずか8.3%に過ぎない。
今後のHRビジネス市場では、セルフ・キャリアドックの啓発と導入に関するコンサルティング、安価かつ手軽に受講できる能力開発セミナーや研修システムの構築に加え、キャリアコンサルタント(資格取得を目指す人も含む)向けの講習拡充や有資格者の派遣・転職サポートなどが、ニーズを高めていくのではないだろうか。
【参考文献】
※1:「セルフ・キャリアドッグ」導入の方針と展開(厚生労働省)
※2:第5回 日本HRチャレンジ大賞発表(HR総研)
※3:平成30年度能力開発基本調査の結果について(厚生労働省)
HR Trend Lab所長・土屋 裕介 氏のコメント
従前より何度も言われてきていますが、終身雇用制度や年功序列など日本の雇用慣行がことごとく転換期を迎えている現在では、会社主体ではなく自分自身で働き方や生き方そのものを決めていくような考え方が広まっています。経営環境の変化が激しく、企業側で従業員の雇用を保証することが難しくなったことと、政府が推し進めている働き方改革とが相まって、このようなムーブメントが起きていると考えられます。
また、キャリアを自立的に形成していこうと動く「キャリア自律」の高い従業員の方が、そうでない従業員よりも会社へのコミットメントが高いという研究結果もあります。セルフ・キャリアドックなどを通してキャリア自律を高める活動が、従業員の幸福と企業の発展の双方によい影響を与え合うでしょう。そういった施策を打つことが企業の競争力強化にも繋がります。そしてこういった取り組みを一過性のブームに終わらせずに定着させることが大切です。
株式会社マイナビ 教育研修事業部 開発部 部長/HR Trend Lab所長
国内大手コンサルタント会社で人材開発・組織開発の企画営業を担当し、大手企業を中心に研修やアセスメントセンターなどを多数導入した後、株式会社マイナビ入社。研修サービスの開発、「マイナビ公開研修シリーズ」の運営などに従事し、2014年にリリースした「新入社員研修ムビケーション」は日本HRチャレンジ大賞を受賞した。現在は教育研修事業部 開発部部長。またHR Trend Lab所長および日本人材マネジメント協会の執行役員、日本エンゲージメント協会の副代表理事も務める。
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