トマトでもなくカボチャでもなく、キュウリのように育ってほしい

稲垣 ネルケさんのご意見ですと「日本人はそもそも宗教性の強い国民である」ということですが、外国の方から見て、日本人の課題はなんでしょうか。

ネルケ お寺で弟子を育成するときに、私はよく「キュウリのように育ちなさい」と言っています。安泰寺では、1本の麻ひもをぶら下げて、その下に、春にキュウリの苗を植えつけます。そうすると、このキュウリは麻ひもを自らつかんで、まっすぐ上に伸びるんです。都会の家庭菜園でもわりと簡単に作れます。自らひもをつかんで、まっすぐ、シュッと上に伸びる。このキュウリは「個々人」であり、1本のひもは仏教でいえば「仏の教え」に見立てることができます。真実や、人間として守らなければいけないルールを自らつかみ、それに沿って育ってほしいというのが、師匠の私の願いです。

ところが、日本人の弟子を見ていると、キュウリよりもトマトが多いんです。トマトもキュウリと同じ時期に種を撒いて、夏に実るんですけれども、その間はまず頑丈な支柱を立てて、何日おきかにしっかりと結んで、屋根を作って雨から守るという手間をかけないと、病気になったり倒れたりする。支柱に沿って伸びるように紐でしっかりと結ぶというのは、「学校で教育される」という意味だと思います。小学校でも、幼稚園でも「みんなのことを考えなさい」と言われますね。みんなに合わせて、場合によっては自分の意見を控えるというのは、日本人からしたら常識ですね。それは素晴らしく治安のよい、平和な社会をもたらしているけれども、主体性を問われるときや、お前はどう考えているかと言われたときに、その場で黙ってしまう。ですから、キュウリのように自分でつかんだものに沿ってまっすぐ伸びるという働きは、伝統的な昭和の教育からは出てこない。

逆に欧米人に多いのは、トマトでもキュウリでもなくてカボチャです。最初の双葉が出た時点ではまだキュウリにそっくりですけれども、そこいら中に蔓を伸ばして「俺が、俺が!」と主張ばかりをする。あの1本のひもを無視して、下手をしたら隣の野菜まで枯らしてしまう。他人の宗教を認められない。本来は同じ神様を信じているはずなのに、一神教徒同士でも絶えず喧嘩してしまう。カボチャたちは、主体性があるといえなくもないけれども、相手の主張を認めることも大切です。だから、日本人はもうそろそろトマトを卒業しなければならないけれど、欧米の方がいいからといってカボチャになる必要はない。その両方のいい点をとった「キュウリになりなさい」と私は言うのです。

平成生まれの若い日本人はとても可能性があると思います。これからキュウリになる可能性はあるし、それをカボチャの欧米人に教えることもできると思います。昭和生まれの人たちは何かにつけて「GDP、GDP!」といまだに言うけれども、これからはGDPだけじゃないんじゃないかということにも、若い日本人は多分気づいていると思います。インドネシアでもタイでもベトナムでも、GDPと関係ない生き方をして、ある意味では日本人より明るく楽しく生きている。日本は、この30年間でGDPが減り続けたからといって、全然卑下することはありません。小さいころから世界中の情報に接している若い世代の日本人は、人生において大事なものを学んでいる可能性がありますよ。
第13話:「universal self」としての「私」こそ、宗教としての気づき

宗教対立はなぜ起こるのか

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