実家暮らしだった高校生まで、私は毎朝チーンとお鈴(りん)を鳴らし、手を合わせて「行ってきます」とつぶやいて家を出ていた。お盆にはお坊さんを招いて、家族全員でお経を唱えた。今でも帰省すると、まずはお線香をあげて手を合わせる。仏教に対して嫌悪感は一切ない。しかし、仏教を深く知ろうとは思わなかったし、今でも仏教徒という自己認識もない。手塚治虫の『ブッダ』は何度も読んだが、動機は仏教への興味というよりも、手塚治虫が描く世界観と、釈迦の生き方や歴史への興味だった。今回の宗教特集を通して、なぜ身近にあるはずの仏教に興味を持たなかったのか、理由がわかった。1つ目は「抽象的でわかりにくいから」。2つ目は「理解する必要がない」と思っていたからだ。
第13話:「universal self」としての「私」こそ、宗教としての気づき
今回、対談相手は、1つ目の問題を解決してくれる人をこだわって探した。私の個人的な問題だとはわかってはいるが、どうも仏教の本を読んでもわかりにくくてつい眠たくなってしまう……。そのときに何気なく見ていた「NewsPicks」の落合陽一さんのコーナー「WEEKLY OCHIAI」で「禅・マインドフルネス」の対談に出ておられたドイツ人のお坊さん、安泰寺住職・ネルケ無方さんの話がとてもわかりやすかった。すぐさまオファーを出したら快諾していただけた。「ハイコンテクスト文化(はっきりとは伝えずにお互いに相手の意図を察しあう文化)」の日本人ではなく、「ローコンテクスト文化(はっきりと伝えあう文化)」の西欧の方からロジカルに仏教を教えてもらおう、という腹積もりだったが、ネルケさんとの対談を通じて仏教への理解を深められたとともに、私が仏教に興味がなかった2つ目の理由である「理解する必要がないから」ということに対しても、新たな視点を持つことができた。3時間近い対談になり文字量が多いため、今回の仏教特集は前後編の2回に分けてお送りする。

日本人の宗教観とは

稲垣 まずは、ネルケさんのご経歴を教えていただけますでしょうか。

ネルケ 1968年、当時の西ベルリンに生まれました。16歳のときに坐禅と出会って、その時点でゆくゆくは日本に渡って禅僧になりたいという夢を持ったのですが、一旦、ベルリン自由大学で日本語学、哲学を勉強してから、1990年に京都大学に留学生として来日しました。そのとき初めて安泰寺のことを知って、半年間そこでお世話になっています。ドイツの大学を卒業してから25歳のとき、1993年に正式に出家得度させてもらって、8年間の修行生活に入りました。2001年までは安泰寺で修行、2001年に師匠から一人前の僧侶として認めてもらい、大阪城公園で「ホームレス坐禅」を行っていましたが、2002年に師匠が急逝なさったため安泰寺に戻って、9代目住職として2020年まで務めました。

稲垣 「ホームレス坐禅」ですか?

ネルケ 日本にはお寺こそたくさんありますが、自分と向き合う仏教がないというか、自分で仏教を実践してみたいと思っても、そういう機会はあまりないんですよね。急に思い立ってお寺に行って、住職に坐禅したいと頼んでも、「うちではやっていません」とか、「隣のお寺だったら月に1回ぐらい坐禅会がありますよ」とか言われてしまう。しかし坐禅会といっても、近所の方が日曜日の午後にお茶を飲みながらおしゃべりをするための集いであって、「自分の生き方や働き方を考えるヒントとして仏教を学ぶ」という場はとても少ない。欧米ならキリスト教はもちろん、チベット仏教、ヴィパッサナー(瞑想法)、禅、マインドフルネス、ヨガなど、学ぶ場所はたくさんあります。

日本でも坐禅ができる場所を作ろうと思ったのです。しかし、山奥では人が来られないので、大阪市内でやってみようと。当時は、あちらこちらの河川敷や公園でホームレスがテントを張っていたので、私も家賃を削るために大阪城公園で生活しながら、坐禅会をやっていました。
第13話:「universal self」としての「私」こそ、宗教としての気づき
稲垣 坐禅会のようなイベントとしては、日本では最近「マインドフルネス」が注目を浴びていますね。「WEEKLY OCHIAI」では、この禅とマインドフルネスの違いに関して活発な議論がなされていました。

ネルケ 私の立場では、日本で「マインドフルネス」が流行っていることに驚いており、正直なところ、厚みがないと感じています。なぜ、元来日本にある「禅」を、わざわざカタカナにして、ライトバージョンにするのか。それを日本人が「新しい」と言うのか。もともと日本には仏教という宗教があり、マインドフルネスの元祖となる禅が何百年も受け継がれているのに。

宗教にこだわりのない民族として、日本人は特殊だといわれますが、それはなぜなのでしょうか。それは、「宗教」という明確なラベルを貼らなくても、社会が安定しているからです。しかし、実情は、決して無宗教ではない。日本には、あらゆるところに宗教が存在しています。例えば、9時に約束があったら5分前には集まる。日本以外の国の人々だったら「5分前に来る必要はないのでは?」と考えますが、日本人は5分前集合を守る。また、食べる前には、なんとなくでも「いただきます」と言う。そして、夜道を渡るとき、右を見ても左を見ても、車はどこからも来ていないのに赤信号では止まる。私が住んでいる田舎の地域では、電車は1時間に1本しか来ません。夜中には電車は通らないのに踏切の前では必ず一旦停止をする。これを宗教的と呼ばなければなんだろう、私には思えます。しかし、当の日本人は、それらの習慣を宗教的だとは思ってないんですね。「共同体のルールは絶対守らなくちゃいけない」という日本型の生活スタイルは、恐らく若い頃、特に小・中学生の時点で徹底的に叩き込まれていると思います。

稲垣 いわゆる、躾(しつけ)ですね。

ネルケ そうです。欧米ですと、それぞれの家庭で躾がされています。ドイツでは朝早く学校へ行って昼間に帰宅し、躾は家でおこなわれます。大人になっても、「自分の人生は仕事が終わったあとから始まる」という感覚です。日本はそうではなく、同じ地域に住んでいる子供は1年生から6年生まで、全員同じ躾を受けて、中学校に入ったらまたそこで、髪型やスカートの長さなども決められる。私にもいま高校1年生と中学3年生の子供がいます。私が「金曜日の夜だから一緒にビールを飲もう」とすすめても、「絶対だめ」、「アルコールは20歳になってから」と断られます。また、私が「先生の言うことなんか聞かなくていいよ」と言っても、「先生の言うことが間違っているはずはない」と子供は返す。

「理由はないけれど、絶対守らなくちゃいけない」という考えに固執してしまうのは、良くも悪くも宗教的ですね。「世間体」という決まりを守るよう洗脳されているようにも見えます。欧米にも世間体がないわけではないけれど、「たかが世間体」というスタンスであって、もっとも重要なものではない。いざというときは自分の考えの方が大事。自分より大切な存在があるとすれば神様だけです。

稲垣 なるほど。欧米では、世間体よりも自分、自分よりも神様が大切だけれど、日本人は神様よりも自分、そして自分よりも世間体が大切だと。正反対ですね。

ネルケ それから、強いていえば日本人にとって大切なのはご先祖様。その風潮も今は少し弱くなっていますが、神仏を重視しなくても、ご先祖様は大切にします。そもそも神仏とご先祖様を分けへだてなく敬うものだと考えているいのが、日本人の感覚だと思いますね。仏壇を開けたら何があるか。ご先祖様のご位牌があるわけです。「ご先祖様の命を受け継いで今の自分が生きている」という気持ちを、日本人は欧米人より強く持っていると思いますね。

欧米人に「ご先祖様と神様のどちらが大切か」と聞くと、ほとんどが「神様だ」と言うでしょう。日本人だったら、そもそもご先祖様は仏や神と同様に敬うべきという感覚ですから、その質問自体、意図がわからないですよね。要するに、ご先祖様たちはみな、仏や神のいる場所にいる。みんなつながっているわけですね。「日本人ならば、どこかでつながっている。だったら日本人という共同体として守るべきことを守ろう」という暗黙の了解がある。したがって、宗教はいらないともいえるし、その了解こそ日本人の共有する宗教だともいえると思うんですね。
第13話:「universal self」としての「私」こそ、宗教としての気づき

トマトでもなくカボチャでもなく、キュウリのように育っ...

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