インドネシアを語る日本人の第一人者、黒田顧問
黒田顧問は、インドネシアを語る日本人として、第一に名前が挙げられる方だ。御年82歳。愛媛県のご出身で、伊予弁が残る優しい話し方をされる。非常に物腰柔らかく、お話を聞いていると、とても和やかな気持ちになるが、身長180cmを超える立派な身体で、時折ギラッと眼鏡の奥で眼が光る。実は顧問は柔道7段の武道の達人。1955年に東レに入社した後も、仕事の半分は京都府警の機動隊で柔道の修行をされていた。そして実は、インドネシアで柔道を広めた立役者でもある。インドネシアのいまの警察・軍隊の幹部は、ほとんどが黒田顧問の教え子だ。日本とインドネシアの関係を深められたことで、両国の政界・財界とのつながりも強い。黒田顧問が初めてインドネシアに降り立ったのは1971年で、何と47年間もインドネシアの変化を見てこられた。「最初にわしが来たときはなーんにもなかった」とおっしゃる。今とは比べ物にならないほどに「日本とインドネシアの違い」を考えざるを得なかっただろう。
大きな違いの中で築かれた、インドネシア人との強い信頼関係
稲垣 最初にインドネシアに来られた時は、1971年とお聞きしています。当時、日本とどのような違いを感じられましたか?黒田 来た当初は、生活スタイルのあまりの違いに驚きました。ほとんどの人が裸足で、体には麻袋のようなものだけを巻いていました。日本からの派遣者たちは、この貧しい国を何とかして日本のような立派な工業国にして、経済的に豊かにしようという崇高な使命感を持って、この暑い国で病気と闘いながら頑張っていたのですが、どうしてもインドネシア人とは波長が合わない。「お祈りばかりして積極的に働かない」というような不満を持っていました。
反対に、インドネシア人の側にも、「そこまでして工業を起こして経済的に豊かにならなくてもいまでも幸せだ。インドネシアには豊かで広大な土地もあり、急いで工業化する必要はないのではないか。どうせ外資の規制緩和をしても経済的に豊かになるのは華僑だけではないか」という声が出始めました。
そして1974年の田中角栄首相のインドネシア訪問をきっかけに、マラリ事件(反日暴動)がおこります。トヨタの販売店や日本製品などが放火され、日系企業は甚大な被害を受けました。これは大変だということで、私は必死になって工場の防衛対策を考えようとしました。インドネシア人に対してすごく警戒心を持ったんです。
しかしこの時、ローカルスタッフが「ミスター黒田、心配することはありません。私たちの工場は私たちが守ります」と言って率先して、工場の防衛に協力してくれました。私は感動するとともに、非常に心強く思い、このことをきっかけに、自分の人生をインドネシアに賭けよう、と思ったんです。
大事なのは「明日を考えること」ではなく「絆を大事にする」こと
稲垣 今、インドネシアではたくさんの日本車が走っていますが、何かきっかけがあったのでしょうか。黒田 今、この国を走っているのは90%が日本車です。モータリゼーションに火をつけたのは三井物産でした。三井物産はインドネシアで月賦販売を始めたんです。この国の人は明日のことなんて考えないから、月賦販売を始めるなんて相当な度胸があるなと思いました。
日本は四季があるので、季節に応じて動かなかったら自分が死んでしまいますよね。4月に田植えをしなければ10月に稲刈りができない。一方、インドネシアは季節変化が緩やかだから、二毛作でも三毛作でも出来る。計画を立てるという習慣がないんです。
じゃあ、なぜ月賦販売が成立したのか。それはインドネシア人がとても「絆」を大切にするからです。例えば、1,000万ルピアのオートバイが、頭金200万ルピアあれば買えるとする。そうすると家族が協力してお金を出し合い、頭金を集めて買ってしまうんです。このとき、翌月の支払いのことは考えてない。
でも、隣のおばさんに「駅まで乗せて」と言われて送ってあげたり、「お弁当を旦那さんの会社に届けて」などと頼まれてチップをもらったりする。こうした周りの人の「絆」をもとに、月賦を払うんですね。これが今100万台以上走っているバイクタクシーOJEK(※1)の原型になります。インドネシアの独特な文化の1つです。