Aさん 「はい、わかりました。よろしくお願いします。」
Aさん 「(あれ?基本給って18万円だったっけ?経理の仕事もするなんて聞かなかったけどなあ。休みも週休2日って言っていたのに全然取れないぞ。くそう、だまされたー)」
社長 「いい人が採用できてよかったよかった……おや、どうしたんだい、Aさん?」
Aさん 「話が全然違うじゃないですか!もうやってられませんよ、退職します!」
人を採用(労働契約を締結)する時には、会社はその人に賃金その他の労働条件を明示する必要がある。また、労働契約の期間など所定の事項については書面で明示をすることになっている(労働基準法第15条、労働基準法施行規則第5条)。
そしてこの明示のタイミングは「契約締結時」である。労働契約自体は口約束でも当事者間で合意すれば成立するので(労働契約法第6条)、上記のケースでは、Aさんが「よろしくお願いします」と言った時点で、社長はAさんに対してきちんと労働条件を明示するべきであった。
さて、Aさんの今後はどうなるのか。労働法に詳しい方なら労働者による労働契約の即時解除権をご存じだろう。労働基準法(以下労基法)では実際の労働条件が事前に明示された内容と異なる場合に、労働者側からの労働契約の即時解除権を認めている(労基法第15条2項)。しかし、このAさんのケースは微妙である。社長は「悪いようにはせん」と言っていただけで、明示された労働条件の存在はない。そうなると労基法第15条の定める即時解除権も発生する余地がない。単なるAさんの早合点である。どうしても労働契約を解除したい場合は、民法の定めにより進めていくことになりそうである(民法第627条、628条)。
『使用者は、労働者に提示する労働条件及び労働契約の内容について、労働者の理解を深めるようにするものとする。』(労働契約法第4条1項)
“深めるようにする”とはまたよく分からない表現である。しかしながらこの表現にこそ労働契約の要諦が詰まっている。現実の多くの採用の現場においては、使用者側は早く働いてもらいたい、労働者側は早く採用されたい、それぞれの気持ちが先走り、労働条件の具体的内容についてはほとんど意識されない。それが原因で入社後落ち着いてから「話が違う」とトラブルになるケースは多く、早期退職防止や定着率向上の阻害要因となっている。採用側としては、はやる気持ちをグッとこらえ、採用時には今後の職場のルールについて丁寧に説明をして、質問などがあれば相手が納得するまで回答をするように努めたいものである。「始めよければ終わりよし」何事も初めが肝心で、慎重に、誠心誠意説明することで将来に向かって良好な関係を築くことができるのではないだろうか。
それが労働条件及び労働契約の内容について、労働者の理解を“深める”ということであり、労働トラブルを未然に防ごうという労働契約法第4条1項に込められた思いであると考えられる。
エピローグ
社長 「すまんかった、これが当社規定の労働条件じゃ。」
Aさん 「思っていたのと違いますねえ。」
社長 「今はこれが精一杯だ。たのむ!」
Aさん 「まあ……頑張ってみます」
一期一会、合縁奇縁、会社と労働者の出会いもまた不思議な力に引き寄せられた貴重な出会いかもしれない。実際にこんな風に上手く話がまとまれば苦労はないのだが、しかしお互いが理解を深める努力をして、より強固な人間関係を作り上げていくことで、よりよい企業経営に繋がっていくのではないだろうか。
出岡社会保険労務士事務所 出岡 健太郎