アスリートとしてのキャリアは「もがき苦しむこと」そのものだった
スポーツ一家に生まれ、自らもハンマー投・円盤投で日本記録を持ち、オリンピック出場を果たした室伏氏。順風満帆な印象を受けるが、その実「もがき苦しむことばかりでした」とアスリートのキャリアを振り返る。「たくさんの悩みを抱え、迷いも少なくありませんでした。自分の持てるものを出し切っても、壁を超えられない時もありました。その時は今の自分にないものなら創るしかないと考えながら、競技に打ち込んだんです」と胸の内を明かした。「オリンピックに出場することが、幼いころからの夢であり目標だった」と語る室伏氏の原点は父、重信氏を応援するためにロサンゼルスのオリンピック会場に足を運んだことだ。「地鳴りのように響く歓声に『お父さん頑張れ』の声はかき消されました。何万人もの前でプレーするのはなんてすごいことだろうと感じました」と思いを馳せる。
投てき競技は何カ月あるいは何年もの練習の成果が「1投7~8秒というわずかな時間で決定します。そこに過酷な現実と実らなかった場合には儚さがあり、失敗した場合にはその記憶は影のようについて回ります。メンタルの強さが求められますが、私自身は本番に弱かったため、その弱さを克服することは競技生活中、絶えず課題として取り組むこととなりました」と述懐する。
絶えず自己をイノベートすることで、困難を乗り越えた
室伏氏は大学進学後、「反復練習すれば結果もついてくる」の信念のもと当時取り組んでいた円盤投のトレーニングに明け暮れたが、オーバーワークからスランプに陥った。当時「鉄人の娘」(室伏重信氏の功績から期待されたキャッチコピー)と呼ばれることに抵抗のあった室伏氏は、大学陸上部の監督でもあった父重信氏のアドバイスに反発していた。しかし、「このままでは何も変わらない」と自らを改め、教えを請う決意をした。信重氏は、やみくもな方法ではなく、トレーニングの法則やピリオダイゼーション理論に則り、投てき選手に求められるトレーニング方法への刷新を提案する。アスリートは、それまでのやり方を変えることは競技成績が「伸るか反るか」のチャレンジ側面も有しており、心身ともに疲弊することが少なくない。しかし、「ワンランク高い技術を身に付けるため」には必要な刷新だった。さらに重信氏は動機づけの面にも訴求した。「理想だけを追い求めていたらモチベーションが持たない。常に手が届きそうな中間の目標を持ち、変化への対応力を身に付ける」ことの重要性を述べ、最適な目標設定の方法を諭した。日常的にこれらを繰り返すことで、「普段の練習通りの成果を本番でも出す」ことにフォーカスできるようになった。二人三脚の歩みはやがて功を奏し、円盤投に加え、大学卒業前から新たに始めた女子ハンマー投では5年という驚異的なスピードで2004年のアテネオリンピック出場を果たすのだった。
アスリートとして困難を乗り越えながら結果を残した室伏氏には、もう一つ「負の経歴」がある。病歴だ。腰痛症で一時は歩行もままならい状態に陥り、加えて、子宮内膜症(器質性月経困難症)など婦人科疾患にも悩まされ、2009年の秋に腫瘍の摘出術を受けた。1年後の2010年広州アジア大会ではハンマー投で銅メダルを獲得するが、腰痛などの不調から引退を考えていた。アスリート生命も危ぶまれたが、2011年の春、アスレティックトレーナーとの出会いが室伏氏を救う。脊椎専門医の受診に導かれ、腰痛症の確定診断が得られた。その際、治療方針が明らかとなり、原因不明の期間に悩まされた疼痛や心理的な不安からも解放され、「自分を蘇らせた」と室伏氏。しかしながら運動負荷から腰痛症の病態は進行し、2012年6月に行われたロンドンオリンピックの選考会の後に根治を目指し、手術に踏み切った。リハビリを経て、引退試合を行った。最後の大会は記録こそ凡庸だったものの、「私を支えてくれた方への感謝が沸くと共に、この競技が心底好きで継続していたのだと、改めて思えました」と笑顔を見せた。引退後は大学での教育・研究者として、スポーツとアンチ・ドーピング(スポーツ医学)やスポーツ心理学などの研究を進めながら、自らの医学的な経験を伝える道を選んだ。「もがき苦しむことが多かったからこそ、得られる体験も大きく、何より成長過程における周囲の人のアドバイスが身に沁みました。この経験は今の仕事で大いに活かされています」と力強く語る。
絶えず自己を変容し続けた室伏氏のキャリアは、本講義のテーマでもある「イノベート」の連続だったと思わせた。実際、室伏氏は「オリンピックの創始者の一人、クーベルタンの言葉『人生で大切なのは成功することではなく努力すること』は、私の人生の最重要テーマ。これからはいろいろな分野でイノベーターとなれるよう努めたいと考えています」と熱意を見せた。今後のさらなる活躍に期待する共に、そのパッションの強さに身の引き締まる思いがした。
ニューノーマルの時代に合った「自分づくり」をしてほしい
室伏氏の講演を受け、徳岡氏は「私たち組織に属するビジネスパーソンは、自己をイノベートすることを苦手にしている側面があります。ともすると、室伏さんが大学時代に行っていたような量のみを求めるような最適ではないトレーニングに固執しがちです。経営の世界ではdo more betterと言い、今行っていることをより上手にできるようにはなりますが、それでは決してイノベーションは起こせません。すわなち、現状の延長上でしか成果が出せず、新規性の高いことはできないのです。受け入れ難きを受け入れ、自らを変容させた室伏さんに見習うべき点が多くあるのではないでしょうか」と述べた。さらにこう付け加える。「ビジネスパーソンはアスリートほど自由がないように感じられるかもしれません。しかし、組織に所属していても個として行える自由の幅は想像以上に大きいはずです。一方、組織に所属していることをある種の言い訳にして、自己を変えなければ届かないような高い目標を掲げ、チャレンジすることを避けることもあります。室伏さんの話を聞きながら、組織に甘えているところはないか、新しい挑戦を避けていないかと、自分自身を見つめ直す機会にもなりました。アスリートとビジネスパーソンは、互いに学び合えば得られることも多いはず。今後は交流の場を積極的に設けるのも有意義でしょう」。
最後に徳岡氏は全4回のシリーズを振り返った。「今、ニューノーマルの時代となり、さまざまなことが大きく変わり始めています。その中で、自己をどうイノベートするかが問われる時代となったと言えます。ストレスは多いと思いますが、だからこそ、セルフマネジメントが求められます。本講義では、禅や瞑想、マインドフルネスあるいはアスリートの生き様を通じて、自分の心を整え保つ方法を学びました。自身を変革させながらも、その一方でブレない軸を持つ。そんな『自分づくり』をこのニューノーマルの時代にぜひ行ってほしいと思います」とエールを送った。
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