海外駐在3カ国で遭遇した戦争・内乱・天災の歴史的事件
稲垣 前職は伊藤忠商事で、海外経験が長かったとうかがいましたが、改めてご経歴を教えていただけますでしょうか。髙木 1973年に神戸大学経営学部を卒業して、伊藤忠商事大阪本社に入社し、その2年後、中国語研修生として、台湾に着任しました。日中国交正常化が1972年ですから、多くの企業が中国語人材の育成に注力していた頃です。初めての海外生活で緊張していましたが、台湾の温かい方々に囲まれ、充実した海外経験を送ることができました。
その後、本社の化学プラント部門に配属されると、中国はまさに大型プラント導入ブームの真っただなか。私は、中国市場を中心としながら、その後のイラン・台湾での駐在も含め、中東やアジア・大洋州など、幅広い地域を担当しました。
稲垣 そんななか、「3つの歴史的事件」に遭遇されたとうかがいました。
髙木 はい。まずひとつ目は「イラン・イラク戦争」です。『海難1890』のタイトルで映画化されたトルコ・日本のエルトゥールル号の友情(※)が話題にもなりました。入社10年目の1983年、私はイランの首都・テヘランに着任しました。当時は、最高指導者・ホメイニ師のもと安定した状態で、仕事は多忙を極めていましたが、1985年に入るとイラン・イラク両国間の戦火は、国境地帯を狙うものから相互の都市攻撃へと拡大の一途をたどりました。
忘れもしません。1985年3月12日、漆黒の夜空にすさまじい衝撃音がとどろき、それを迎え撃つ対空高射砲の閃光が走りました。テヘラン都市部への空爆が始まったのです。その数日後、我々駐在員は、子供を含む家族と手を携えて、着の身着のまま、テヘラン郊外の山岳地帯に避難しました。
ここからは、NHKの番組「プロジェクトX」でも紹介された有名な話ですが、イラクのフセイン大統領が「(この日以降)イラン上空を飛行するすべての飛行機を攻撃対象とする」と宣言した期限ぎりぎりの3月19日の夕刻に、我々はトルコ航空救援機で、一路、トルコのイスタンブールに脱出することができました。
稲垣 あのとき報道された様子は、今もはっきりと記憶に残っています。あの飛行機の中に、実際におられたのですか!
髙木 はい。離陸後、機内で、オズデミル機長による「Welcome to Turkey!」とのアナウンスに接した瞬間の安堵感は忘れられません。しかし、我々避難民一同は疲労困憊で、大喝采する間もなくそのまま深い眠りに落ちました。爆撃のすさまじい衝撃は、今でも私にとってトラウマとなっています。
トルコ航空機が、なぜ大きな危険を冒してまで日本人を助けてくれたのかについて、一部の報道では「日本からの経済援助を期待している」というものが見られましたが、それに対し駐日トルコ大使が、「違う! 我々はエルトゥールル号の恩を決して忘れない!」と毅然と発言したことには、大きな感動を覚えました。損得勘定を超えた「心の交流」といえるでしょう。
髙木 はい。中国の「天安門事件」です。ご存じかと思いますが、1989年6月4日の事件発生後、中国国内は混乱を極めました。TVからは政府指導者の映像が消え、「デモ煽動分子・密告奨励」一色の報道が続いていました。伊藤忠本社からは帰国命令が下されて、我々がいた北京を含む中国全土の駐在員とその家族は、日本の救援便で成田に帰還しました。
その後、米国が中国を人権侵害国家と認定して、中国への経済活動加担行為を厳しく制限しました。しかし、中国市場最優先方針を取る伊藤忠は、北京への段階的復帰を決定しました。私は約1週間日本に避難した後、所長を含む4名の復帰第一陣のひとりとして、再び北京に舞い戻ったのです。
稲垣 すごい緊張感のなかでの帰還ですね……。現地の中国人はどんな様子でしたか?
髙木 北京に到着して、すぐに北京事務所に復帰を報告すると、中国人スタッフ80名が勢揃いして我々を出迎えてくれました。嵐のような拍手の音が鳴り止まず、我々は肩を抱き合い、再会に涙しました。この時の感動は、今も忘れることはできません。
稲垣 そのような状況下でしたら、日本メディアも、伊藤忠の挙動にかなり注目していたのではないでしょうか。
髙木 これは裏話ですが、実は「北京空港に舞い降りれば、内外マスコミの格好の餌食になる。社名が決して出ないよう、万全の注意を払ってほしい」と本社から指示を受けていました。しかし結局、北京空港到着時の模様は、ある大手雑誌に写真入りで大きく報道されてしまいました。満面の笑を浮かべる私の足下に、「伊藤忠運輸倉庫」というロゴが入ったダンボールがしっかりと写っていたのです。箱の中身は、伊藤忠中国室の女性職員が想いを込めて詰めてくれた、単身者用緊急食料でした。
稲垣 ここまでの話だけでも、胸がいっぱいになります。そして最後は天災だそうですね。
髙木 はい。3つ目の歴史的事件は、死者約2,400名を数えた「台湾中部大地震」です。1999年9月21日、猛烈な揺れに叩き起こされました。当時、私は台湾伊藤忠の危機管理責任者だったので、通信手段が整わないなか、なんとか駐在員全員の安否を確認し、早朝、本社に一報を入れました。
ちなみに、これが危機管理の模範事例として「日本経済新聞」で報道され、テレビ朝日の討論番組「サンデープロジェクト」からもノウハウについての取材を受けました。
稲垣 この災害は私も記憶に新しいです。この時の日本の支援が12年後、「東日本大震災」で受けた台湾からの支援につながったと聞いています。
髙木 そうです。当時から現在にいたっても、実は日本と台湾には正式な外交関係がありません。そんななか、当時東京都知事だった石原慎太郎さんの鶴の一声で、真っ先に救援隊派遣が決定しました。不眠不休の救援活動は、連日、台湾各紙で好意的に報道されていました。任務終了後、日本に帰るべく桃園空港に集結した救援隊は精も根も尽き果てた状態だというのに、整然とした隊列を保っていました。その姿に、空港に居合わせたすべての台湾の方が、ロビーに鳴り響くほど大きな拍手を送りました。加えて、「感謝日本! 感謝日本!」とコールの嵐です。あれは非常に美しい人間愛のひとコマだったと思います。
そして、おっしゃる通り、2011年3月の東日本大震災では、台湾から250億円もの義援金が贈られました。なんとその大半が、民間からの善意として集まったのです。国交という政府間の正式交流はなくとも、日本と台湾の温かい心の交流は揺るぎません。
(※明治時代の1890年9月、オスマントルコ帝国の軍艦・エルトゥールル号が、和歌山県串本沖で座礁、沈没した。乗船者650名のうち多くの尊い人命が犠牲になったが、命からがら岬にたどり着いた69名は、村人の不眠不休の救助のすえ、本国に送り返された。トルコでは、教科書でこの美談を脈々と語りついでいる。)