Vol.09
HR総研 先端人事研究「2020 人事新潮流」
「今、なぜ『キャリア権』なのか」 組織と個の関係性の変化の中で、双方にメリットをもたらす羅針盤
横並びの一括採用や年功序列に象徴される日本型雇用システムが崩れつつある中、組織と個人の関係性も大きく変わってきている。時代は「組織」中心の雇用の考え方から「個」を「軸とした対応へと移り変わりつつあるが、そこで羅針盤となるのが、「キャリア権」という概念だ。果たしてそれは、組織・個人双方に何をもたらすのか。「キャリア権」の提唱者である法政大学 名誉教授 諏訪康雄氏にお話を伺った。
組織対個人の在り方に変化
寺澤弊社ではHRプロというサイトを運営し、多くの企業の方々から人事に関するさまざまな課題やお悩みをお聞きしておりますが、ここ最近、これまで当たり前だった日本型の雇用慣行に大きな変化が起きているように感じます。経団連の中西会長やトヨタ自動車の豊田社長など経済界の重鎮が相次いで終身雇用の維持は難しいと発言し、話題になりました。一方で、新卒一括採用や横並びの処遇も見直すべきであるという議論が起こっています。まずはこうした一連の動きについて、諏訪先生はどのようにお感じになられますか?
諏訪時代の変化の中では、トヨタ自動車ほどの大企業でさえ、20歳前後で採用した人を65歳、あるいは70歳まで責任を持って雇用し続けるのは難しいということです。目立った動きとしては、新卒一括採用の見直し、さらには終身雇用の限界や定年の引き上げなど、入口(採用)や出口(定年)が従来と大きく変わってきています。しかし入口と出口は変わりつつあるのに対し、真ん中の部分、つまりキャリアを構築する過程に変化が起きていません。私はここに大きな問題があると感じています。
寺澤もう一つの大きな変化として、企業と従業員の関係性があります。戦後日本では、企業が従業員の面倒を責任を持って見るという暗黙的な関係性が築かれてきました。しかし働く側の意識や価値観が多様化し、組織から個への動きが進む中、従来のような関係性に揺らぎが生じてきているように感じます。
諏訪組織対個人の在り方が揺れ動くようになった一番の要因は、人口構造の変化にあると言っていいでしょう。これまで日本型雇用がうまくいっていたのは、ピラミッド型の人口構造を維持してきたからに他なりません。つまり三角形の底辺に若い世代がたくさんいて、そこが上の世代を押し上げていくという年功序列の構造がごく自然にできていました。しかもそれを個々の企業が維持できていたのは、永続的な市場環境や長期的な発展を前提としてきたからです。しかし、そういった前提条件が崩れ、人口構造が逆ピラミッド型になってきた今、それができなくなっています。
組織と個の「親子関係」が崩壊しつつある中で
寺澤これまでの企業と従業員の関係性は、親子関係に似ていると思います。要するに企業が親で、従業員が子供です。親の立場が圧倒的に強く、「言うことを聞いていれば、悪いようにはしない。お前のためを思って転勤させるんだ。そうすれば必ず成長できる」と。一方の子も親に対して不満はあるものの、「食べさせてくれるし、親の言うことを聞いていれば間違いはないだろう」と依存し、結果的に親離れが出来ない状態でした。ところがここにきて、親が突然「もう面倒は見切れない!」と宣言し、子供たちも慌て始め、それまでの関係性がガタガタと崩れてきてしまっています。
諏訪おっしゃる通りだと思います。今までは組織の都合が優先で、組織が用意したレール上を進めば、然るべき昇進や昇給、定年までの雇用が保証されてきました。しかし90年代のバブル崩壊後、寄らば大樹の陰だった大企業も、すべてが永久に存続しないことがわかりましたし、存続している企業でもリストラや整理解雇、あるいは早期退職制度による肩たたきなどが行われ、それを下の世代はずっと見てきたわけです。今、子供たちは親の姿を見て、「昔のようには再生できないのではないか」と疑い、一方の親側も、「変化の激しい時代に、65歳や70歳まで面倒は見切れない。子供もそれなりに自立してくれ」と思い始めています。こうした状況だからこそ、各人が自分のキャリアは自分のものであるという認識を持ち、きちんとキャリアオーナーシップを持っておかなければならないのです。
寺澤従来の新卒採用では、初任給は横並びのスタートでした。しかし昨今では、新卒時から能力査定が導入され、AI人材などいきなり高い給料が支払われるケースも増えています。そうなると、かつてのように年齢に応じて徐々に給料が上がっていくという仕組みは機能しなくなるでしょう。組織よりも個人の状態がフォーカスされ、優秀な人がどんどん評価される一方で、役に立たない人はいきなり切り捨てられかねません。働く側からしてみれば、キャリアを人任せにしていると、そういったリスクも背負うことになるわけですね。
キャリア権とは何か?
寺澤先生は20年以上前から、自律的なキャリア形成を実現させるための拠り所の一つとして、企業の「人事権」に対して、個人の「キャリア権」を提唱されています。そもそもキャリア権とはどういったものなのでしょうか?
諏訪キャリア権とは、「働く人が自分の意欲と能力に応じて希望する仕事を選択し、職業生活を通じて幸福を追求する権利」です。キャリア権という概念は確かに私が提唱したものですが、実はキャリア権を構成する基本的な要素は、昭和20年代の初頭に作られた日本国憲法の中にすでに埋め込まれていました。まず憲法13条では、個人の尊重や幸福追求権が規定され、その先の憲法26条には教育・学習権があります。また憲法22条では職業選択の自由が謳われ、さらに憲法27条では勤労の権利と義務、すなわち労働権が規定されています。このようにキャリア権とは、個人がキャリアを構築する際の法的基盤となる理念・概念であり、特定の資格や雇用形態にかかわらず、働く人すべてに当てはまるものなのです。
寺澤もともと明確な権利として認められていたと。しかしそれが日本型のシステムに組み込まれると、親子関係の中でとりあえず親だけが権利を持ってしまい、子供はただ身を預けるしかないというわけですね。
諏訪おっしゃる通りです。日本型の組織中心、組織優先型の発想がすでに社会の中に根づいていましたから。したがって何が起きるかというと、キャリアを選択できるのは最初に就職先を見つけるときだけで、キャリア権はそこで止まってしまうのです。そこから先は組織の人事権に身を委ね、それに異を唱えようものなら、冷や飯を食わされるか、あるいは組織を出ていくしかありません。ちなみにもう一度だけ、キャリアを自由に選択できる機会があります。それは定年後、つまり出口のところです。しかし、それまでずっと他人任せできた人が、その年齢でいきなり自立することは難しいでしょう。
寺澤どのようなきっかけで、先生はキャリア権の必要性をお感じになられたのでしょうか。ここに至るまでの経緯について、簡単にご紹介ください。
諏訪私は1980年代半ば頃から、パートタイム関係の立法政策や労働者派遣法などの研究に携わってきました。そうした中、パートタイム労働政策の検討過程で、職業能力開発、つまりキャリア形成こそが鍵になると気づき、その構造や機能、政策実現方法に目が向くようになりました。そして職業能力開発や労働市場の勉強を進めるうちに、日本型の働き方は決して万全ではない、それどころか、年齢や性別に関係なく、誰もが生き生きと働くためには、従来通りの日本型システムだとかなり無理があるのではないかと考えるようになりました。一方で、社会学や心理学など他分野におけるキャリア研究についても学び、それらをヒントに、キャリアを法の世界に取り入れたらどうなるのかという視点で、憲法を見直したところ、主要な構成要素はすでに憲法の中に入っていたことがわかりました。そこで憲法に分散的に規定された諸要素を体系化し「キャリア権」と名付け、1996年に論文を発表した次第です。
キャリア権の法的位置づけ
寺澤これまで不思議なことに、「労働法と労働基本権」、「環境法と環境権」、「情報法とプライバシー権」、「スポーツ法とスポーツ権」などの議論や学会はあるにも関わらず、「キャリア法とキャリア権」の議論は、日本はおろか、世界的に見てもほとんどなかったそうですね。
諏訪そもそも法律学者は立法政策といった、法を新たに作っていく部分に関しては、それほど高い関心を示してきていません。またキャリア権はあくまでも理念であり、法律学の中では間接的な効力や宣言的な効力しかないため、なかなか議論になりづらい面もあります。一方、欧米などでは契約上、個人の主張できる領域が広く、キャリア権のようなものも文化の中に盛り込まれているため、わざわざ議論するまでもないということだと思います。
寺澤現在、法的にはどのような位置づけになっているのでしょうか?
諏訪2001年にキャリア権という考え方をベースにして、雇用対策法や職業能力開発促進法が改正されました。そこでキャリアという言葉は「職業生活」、キャリアデザインという言葉は「職業生活設計」と訳され、その後急速にキャリアに関するさまざまな政策が生まれてきたわけです。2015年には職業能力開発促進法が改正。これにより、労働者は「職業生活設計」を行って、それに沿って職業能力を開発していくことが努力義務となりました。さらに事業主にはそれを支援していく努力義務が課せられ、国にはこれらを巡る国民への教育の推進が求められています。もしキャリア権という基礎となる考え方がなければ、こうした一連の法改正も実現しなかったでしょう。
法政大学 名誉教授 /日本テレワーク協会アドバイザー
諏訪 康雄氏
1970年に一橋大学法学部卒業後、ボローニャ大学(イタリア政府給費留学生)、東京大学大学院博士課程(単位取得退学)、ニュー・サウス・ウェールズ大学客員研究員(豪州)、ボローニャ大学客員教授、トレント大学客員教授、法政大学大学院政策創造研究科教授、厚生労働省・労働政策審議会会長等を経て、2013年から法政大学名誉教授。主な著書に『雇用政策とキャリア権』(弘文堂・単著)、『雇用と法』(放送大学教育振興会・単著)、『労使コミュニケーションと法』(日本労働研究機構・単著)、『労使紛争の処理』(日本労使関係研究協会・単著)、『外資系企業の人事管理』(日本労働研究機構・共著)など。