若い時分は、とにかくよく叱られたものだ。親からはもとより、近所のおじさん、学校の教師や部活の先輩などなど、叱られない日はなかった。今にして思えば、これらの「叱り」には理不尽さを感じる場面もあったが、自分の浅はかな言動を軌道修正してくれることも多かった。また当時は、それだけ濃密な人間関係が存在していたという証でもあるだろう。
相互不干渉社会の功罪

相互不干渉社会とは?

時は経ち、齢を重ねれば重ねるほど実感するのだが、そういう「叱る人」が周りから居なくなってきた。かつては、「叱られた」といえばそこに「教育的指導」というニュアンスが強く含まれていたが、ある時代からは、「過干渉」とか「不要なしがらみ」に変化し、それを極端に嫌う風潮が蔓延してきた。

いや、私たちが自ら好んで「相互不干渉」な社会づくりに勤しんできたのかも知れない。実生活では、核家族化による新興住宅団地や、マンション暮らしによる地域コミュニティの希薄化、職業生活では、IT化の導入等によるコミュニケーションや、飲みニケーションの減少など、確かに私たちはそのような社会をつくりあげようとしてきた。

「叱る」、「干渉する」といったある種の“価値ある場面”を捨て去り、自らの刹那的快楽を追求してきた歴史は否定できない。そのような意味で、他人との関係性の中で培われてきたであろう「自覚力」や「自律性」を無意識のうちに失くしてきたとも言えよう。

ハラスメント行為の回避は正しいのだが……

現在、職場で盛んに問題視されている「ハラスメント」も、これらのコンテクストの中で理解すると腑に落ちる。

つまり、干渉されることに極めてデリケートな人心の下では、他人からの些細で問題にならないような言動でも、立ちどころにハラスメント行為というレッテルが貼られてしまう。加えて、ハラスメント行為そのものに明確な基準がないことも大きな要因だ。例えば、セクハラ行為の場合は、相手の受け止め方次第で嫌疑がかけられてしまうわけであるから、考えようによっては、極めて理不尽な状況が生まれている。

他人とコミュニケーションをとったばかりにハラスメント加害者になってしまう可能性が高いのであれば、このリスクをヘッジする最善の方法は、コミュニケーションをとらないことである。

従って、このような選択をする人が増えることは何ら不思議な現象ではない。現代風に言えば、「コミュニケーションをとることは“コスパ”が悪すぎる」とでも表現すればよいだろうか。

一方で、「叱られる」プロセスで学びを得て、自己成長を図ることは難しくなってしまった。誰も叱ってくれない社会では、無自覚のうちに自己成長を阻害された人たちが、大量生産されている。このような社会環境は、視点を変えれば究極の個人主義社会とも言えようが、問題は、それが国や社会や組織などの将来と果たして整合するのか、という点である。

ハラスメント研修のあり方

企業におけるハラスメント研修を例にとってみよう。

企業によっては、ただでさえ個人リスク回避傾向が強く、チームとしての体を成していない組織風土にあるところも多い。そのような企業においてハラスメント研修が行われるわけである。外部講師はハラスメント行為が加害者や会社に及ぼす経営リスクを、ひたすら声高に訴える。すると、受講者の表情はだんだん曇りがちになり、その顔には「ならば何もしない方が安全だね」との文字が浮かび上がる。

結果として、ハラスメント研修は、現代の個人主義的風潮を助長することになる。コンプライアンスやリスクを強調するあまり、個人の成長や組織の活性化を奪ってしまうのだ。

ハラスメント対策を施さないと経営リスクが拡大することは論を待たない。しかし、個人やチームの成長やその付加価値を担保したうえで事を進めていかないと、将来に大きな禍根を残すことにもなる。そのため企業経営にとって無闇矢鱈に「いけませんよ。ダメですよ。やらないでください」を印象づけ過ぎるハラスメント研修は、実は、百害あって一利なしなのである。
株式会社WiseBrainsConsultant&アソシエイツ
社会保険労務士・CFP
大曲義典

この記事にリアクションをお願いします!