働き方改革の実現にとって、「生産性の向上」は必要不可欠であることは論を待たない。では、「生産性」とは何を意味するのか。一般的な定義では次のような算式で表現される。

「付加価値生産性」=付加価値÷労働投入量

従って、付加価値額が不変であれば、労働投入量を抑制することで「生産性」は上昇することになる。このことを短絡的に捉えて、「労働時間の削減」=「生産性の向上」といった誤解が蔓延しているように感じる。
生産性向上の誤解と人的資本への投資

個人任せでなく、いかに組織単位での生産性を高めていくか

確かに、生産性向上のための一つの要素として、労働投入量の削減はありうる。しかしそれは、生産性向上の入り口に過ぎない。最も大事なのは、「効率化で生み出した余力を何に投資するか」である。その投資行動が、生産性を高める源になる。平たく言えば、労使が一体となって“儲かる商売の仕組み”づくりをしないと、生産性の向上にはつながらないし、結果として労働者の賃金が上がることもない。

今回の働き方改革による「生産性の向上」というメッセージの裏には「労働者の」という枕詞が潜んでいるように思えてならない。問題を抱えているのは「労働者」なのだろうか?

そもそも「労働者」は、企業という組織単位で仕事をしている。個人の働き方を個々が追求しても、自ずと限界がある。「個人の創意工夫や努力」といった個人任せのオペレーションを強制したり、期待することが、生産性向上のプライオリティではない。問題の本質は、組織単位での生産性をいかに高めていくかというところにあるはずだ。

「ヒト」と「ソシキ」に投資するという発想を持たない企業は、短絡的に労働時間を一律に削減したり、従前の発想に基づく経費削減に走ってしまう。例えば、こうだ。

・ペーパーレス化で印刷代削減
・会議の回数や時間の削減
・タクシー利用禁止で公共交通機関の活用
・聖域なき経費一律10%削減

果たして、こんなことをして生産性向上にどれだけ有効なのだろうか?確かに誰にでも分かりやすいし、目に見える部分の経費削減はできるだろう。しかし、それと裏腹に失われたものの大きさに思いを致さなければならない。

本来、生産性を高めるためには、設備や従業員といった稼ぎ手に最大限投資すべきであるにも関わらず、知恵のない思考停止状態の経費削減に走り、負のスパイラルに陥っていないだろうか?

すぐに効果が現れない「ヒト」と「ソシキ」への投資こそ雌雄を決する

無形の資産たる「ヒト」と「ソシキ」の力は侮れないものである。付加価値生産性を考える場合はなおさらだ。特に、バランスシートに載らない従業員や組織力は、経営者にとって最も大事な資源であるにも関わらず、人間にとっての“水や空気”と同列の扱いとなっていることが多い。なぜなら、投資しても直ちに結果が現れないからだ。しかしこれをなおざりにしていると、後で大きなしっぺ返しを喰らう。

現代の経営は、“答え”が簡単に見つからない時代に立ち至っている。どのような優れた経営者であっても、立ちどころにさまざまな経営課題を解決することは不可能である。そのような時代の働き方改革だからこそ、そのキーワードは、「ヒト」と「ソシキ」への投資である。非価格競争力の優劣が将来の雌雄を決する、と言っても過言ではない。

たびたび拙稿で、組織内の自由や余裕、遊びといったファクターの重要性を強調しているが、それは、企業の無形資産づくりに欠かせない代物だからである。働き方改革花盛りであるが、少し立ち止まって、足下を見つめていただきたい。
株式会社WiseBrainsConsultant&アソシエイツ
社会保険労務士・CFP
大曲 義典

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