【前回の記事】
※【図解】「人事戦略」の意味や目的とは? 重要性や戦略人事との違いなども解説
人事戦略策定において押さえておくべき「人的資本経営」の考え方とは
これからの人事戦略策定においては、「人的資本経営」の考え方を押さえておくことが重要となります。「人的資本経営」とは、経済産業省の定義に基づくと「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営」のことです。こうした概念は長く経営や人事に携わってきた方にとっては、「何をいまさら」と感じてしまうかもしれません。確かに日本においては、人の能力を基軸にした「職能資格制度」が多くの企業で取り入れられてきました。また、伊丹敬之の『人本主義企業(※1)』 、大沢武志の『心理学的経営(※2)』 などに代表されるように、「人を中心として、その能力を発揮してもらうことによって、経営力を高めていく」という考え方は既に文化として根付いているように感じます。
※1:株主主権である「資本主義企業」の対比として1987年に伊丹敬之氏が提唱した概念。「従業員主権」、「分散シェアリング」(情報・付加価値・意思決定が組織内で分散されており、非相似的な関係となっている)、「組織的市場」(売り手と買い手の長期的利害の一致・協力関係の構築)を特徴とする。
※2:リクルート社における人材・組織開発の基盤となっている考え方。人間は非合理的な側面・感情的な側面を有しており、その側面を最大限尊重・受容して、「個をあるがままに活かす」ことが有効であると提唱。
しかし、本当に日本企業は「人を大切にして、その力を活用してきた」と言えるのでしょうか。例えば、いわゆる正規社員に対する解雇規制などの存在が、人材の安定的な雇用に寄与してきた側面はあると思います。一方で「人材に対する投資」に関しては、諸外国と比した定量的なデータとして、その水準が非常に低いということ分かります。
人的資本経営の1つの要素として捉えるべき「人的資本開示」
これまで、日本企業における人事(人材の取扱い)というのは、ややブラックボックス化しており、経営陣ですらむやみに触れられない領域だった様に思います。また、現在の経営陣や管理職が若手社員であった時代においては、修羅場体験が出来る機会も多く転がっており、そこからの学びで十分に成長できる環境でした。それがゆえに「人は勝手に育つもの」という意識が強く、意識的な育成やタフ・アサインメントなどへの取り組みが後手に回ってしまった企業も多いのではないでしょうか。そうした状況に対して、「人的資本に関する開示」が行われることにより投資家の目と圧力に晒され、結果として人的資本に対する投資の改善に繋がることが期待されています。ただし現在の潮流はやや、「人的資本情報の開示」に焦点が当たりすぎているかもしれません。しかし「人的資本情報の開示」というのは人的資本経営の1つの要素にしかすぎません。『人材版伊藤レポート』でも、持続的な企業価値向上の実現に向けては、以下のような要素が重要であると述べられています。
・経営陣によるイニシアティブ(“人材戦略”の策定・実行等)
・取締役会によるガバナンス(“人材戦略”の承認・実行の監督等)
・企業と投資家との対話(“人材戦略”を考慮した投資先の選定・対話)
・従業員として企業の“人材戦略”を踏まえた自律的なキャリアの選択
そして、ここで触れられている“人材戦略”に求められる観点として、提示されているものが「3つの視点と5つの共通要素(3P・5F)」です。
企業事例から学ぶ経営戦略との連動に向けた「人材戦略策定」のポイント
3つの観点の冒頭に語られている「経営戦略と人材戦略の連動」という命題自体は、目新しものではありません。しかし、「連動しているかどうか」はどの様に見極めるべきなのでしょうか。これは2つの側面からの問いに答えられるかが鍵であると考えています。(1)定性的な側面からの問い
「なぜその人材戦略を実現すると、経営戦略の実現等に繋がるのか」という問いに対して、理論とパッションを交えて、美しいストーリーとして説明できるか?(2)定量的な側面からの問い
「その人材戦略のKPIの変化は、経営戦略における指標(KGI)にどの程度繋がるのか」という問いに対して定量的に説明できるか?前者はさておき、後者については「難度が高い」と思われる方が多いのではないでしょうか。こうした人事領域における定量化は「3つの観点」の2つ目「As is – To beギャップの定量把握」にも繋がる重要な試みである一方、非常にハードルが高いものです。しかし、その高いハードルに挑戦している企業も存在しています。その好例が医薬品大手のエーザイです。エーザイの統合報告書(価値創造レポート)では「人財計算式」というものが提示されており、人に対する投資対効果を定量的に示す試みを行っています。
・人件費投入を1割増やすと、5年後のPBRが13.8%向上する
・研究開発投資を1割増やすと、10年超でPBRが8.2%向上する
・女性管理職比率を1割改善すると、7年後のPBRが2.4%向上する
・育児短時間勤務制度利用者を1割増やすと、9年後のPBRが3.3%向上する
上記の関係性は統計学を学んだことがある方であればお分かりの通り、あくまで「過去そうであった」にすぎず、「将来そうなること」を確約したものではありません。しかし、主要な経営指標と人事指標を定量的に結び付けたという点では大きな意義があります。
また、経営指標への寄与度が可視化されたことによって、人事以外の施策・投資との比較可能性も高まります。例えば、10億円のキャッシュが存在するときに、「設備・機器に投資するべきか、人件費に投資するべきか」の合理的判断はこれまで非常に困難でした。さらに言うと、そうした場面においては効果が見えやすい有形資産に対する投資を優先させるケースが多かったのではないでしょうか。その結果、人を含む無形資産への投資が後手に回っている状況があるのかもしれません。こうした状況を打破するためにも、人材戦略における定量的な説明可能性の担保が今後ますます重要になるのではないでしょうか。
人的資本経営と人事
これまで4回にわたって、「人事制度」や「人事戦略」について解説してきました。人事に関わる方にとって耳慣れた言葉である一方で、それぞれ非常に深い奥行を持った世界がある言葉でもあります。これまで解説してきた内容も、その世界の一部を切り取ったものに過ぎません。また、人事制度も人事戦略も各社の文脈(戦略)依存性が高く、無限のパターンがありうるものです。そうした混沌とした複雑な世界に立ち向かい、自社としての人材戦略・人事戦略を描ききる力が、人事として今後より強く求められてきます。そういった意味では人的資本経営によって、中長期的な企業価値向上を実現する前提として「人事部の人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すこと」が必要なのかもしれません。実はこうした「人事部門のケイパビリティ向上」は『人材版伊藤レポート2.0』でも重要テーマの1つとして掲げられています。もしかすると「人事戦略や人事制度を実現する主体としての人事に対して十分な投資がされているか」を検証することが、あらゆる取り組みの第一歩として重要なのかもしれません。
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