人事を「科学」の観点で考える必要はあるのか
人事と科学。これまで、この2つは人事現場ではかけ離れた存在であるかのように捉えられていたように思います。例えば人事コンサルタントが、企業の人事担当者に理論的な話をしても、人事担当者は心の底で「そうは言っても、理論と実践はぜんぜん違う」と反発していたかもしれません。また、人事コンサルタントが参照する文献もだいたい決まって海外、特にアメリカで研究されたものを参照していたのではないでしょうか。そのため、人事担当者側が人事の研究事例を調べる際にも、あくまで海外の話としてしか受け入れられなかった感があります。しかし、いま、少しずつ人事と科学の距離が近づいていると感じています。普段の人事の仕事に目を向けてみると、「リーダー育成」、「エンゲージメントや離職防止」など、直近の人事課題は、科学的な知識が求められるものばかりです。例えば、「離職」は複合的な要因で起こるため、本当に離職の原因を特定するなら、離職に影響を及ぼす要素を変数として調べ、どの変数が最も影響を及ぼしているのかを確認することになります。離職要因の特定は、統計的な考え方以外にも、「内発的動機づけやワーク・エンゲージメント」といった理論的背景を知らなければ仮説を立てることにも行きつきません。
昨今は、人事の問題解決の際に、文献を調べることも増えてきました。なぜなら、最近の人事課題は専門知識が求められるとともに、日本でも人事に関する良質な研究が増えてきたからです。
例えば学術的な文献の検索サイト『Google Scholar』で、「人事」というキーワードを検索してみると、80年代は6,760件、90年代は13,000件、2010年代は16,800件でした。2020年代は、現時点(2021年7月末)で5,070件です。80年代は1年あたり670件程度の研究だったのが、2020~2021年の約1年間半で5,000件以上もの研究や文献発表が行われていることに驚きます。
人事の現場で科学的な知識が求められると同時に、日本でも人事分野に関する研究が進んでいるようです。
「流行り」の時代は終わった
そもそも、経営学の世界や組織心理学の世界では、人事と組織は長年にわたって研究が行われてきました。例えば、現代社会のライン長がラインをマネジメントする方法は、20世紀初頭に経営学者フレデリック・テイラーが提唱した「科学的管理法」に端を発します。現代のリーダーシップの研究や、カウンセリングの技術も、元をたどると1920年代に行われた「ホーソン実験」がきっかけです。私たちが普段、仕事で活用している概念や言葉も、本来は海外で研究されてきたものであることが多いと言えます。「目標管理制度(MBO)」は、経営学者のドラッカーが提唱した概念ですし、「エンゲージメント(ワーク・エンゲージメント)」もオランダのユトレヒト大学のシャウフェリ教授が提唱した概念です。しかし、日本の人事担当者は元ネタになった文献を調べず、“何となく”で概念を使用しているケースが多いのではないでしょうか。
例えば、研修担当者の間で信じられている「ラーニングピラミッド」という理論があります。一言でいえば、「学んだことが最も定着する方法は、人に教えることだ」という理論です。
実はこの「ラーニングピラミッド」理論について、「嘘である」という懐疑的な見方をする研究者も居ます。南山大学 准教授の土屋耕治氏が書いた『ラーニングピラミッドの誤謬:モデルの変遷と“神話”の終焉へ向けて』という論文によれば、「現在流布しているラーニングピラミッドの数値には根拠もなく、その妥当性も乏しいばかりか、出自に関しても到底科学的とは言えない変更が加えられてきている」という指摘がなされています。
しかし、こうした科学的に根拠のない理論を、私たち人事担当者は信じてきたのです。
日本の人事担当者は、あまり科学的な文献を参照しないまま、「流行っているから」あるいは「これはきっと科学的だから」という理由で、誤った理論を使用している場合があります。科学的に考えていないからこそ、「根拠のないこと」や「本当に効果のあるかどうかのわからないこと」を受け入れてしまうのではないでしょうか。
実際に、以前日本企業で流行った「成果主義人事制度」の失敗は、科学的に考えず流行りにのってしまった人事担当者がもたらした“人災”であると考えることもできます。
実践と理論、研究が融合する時代へ
ただし、科学的であることが100%良いわけではありません。科学的に解明されていないけれども、なぜかうまくいく「経験則」も、それはそれで大切です。人事の現場では、時には科学的、理論的であるだけではうまくいかないこともあります。「人」を相手にしているからこそ、大事な場面では「経験」と「勘」がむしろ大切なのです。理論を鵜吞みにせず、経験と勘にだけに頼らず、“両者を融合させて判断していくこと”がこれからの人事に求められる能力です。また、日本の研究者もより現場に近づいていく必要があります。海外では、修士号や博士号を取得して企業で働く人が大勢います。例えば、アメリカで組織心理学を学んだ人は、その後、大企業の人事マネージャーとして破格の給料で働いているそうです。「ジョブ型雇用」により、仕事や役割に求められる知識がジョブディスクリプションにしっかりと書かれているからこそ、個人は学んだことを仕事に生かすことができる仕組みになっています。
また、修士号や博士号を取得しているからこそ、科学的な視点を用いて、人事的な問題を解決できたという実績もあるでしょう。近年、日本でも流行っている「心理的安全」という考えも、Google社内の科学的な視点を持ったリサーチチームが、自社内のマネージャーの行動を研究して再発見した概念です。こうした観点からすると、日本の人事は科学的には「遅れている」と感じます。
日本もこれからジョブ型雇用が進むにつれて、より高い専門性が求められるようになってきます。近年では、社会人が働きながら大学院に通うことも、少しずつ当たり前になってきました。これからは、人事分野でも実践と理論、そして研究が融合する時代になっていくのではないでしょうか。
次回からは、現場の観点から、より具体的に人事に関する科学的な知識を探求していきます。
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