政治家への合理

何が武人としての自分を捨てさせ、自由民権運動へと導いたのか。
彼が初めて「『民』は平等でなければならない」と感じたのは、先に述べた戊辰戦争における会津攻めの際であった。
 この時、武の誉れ高い会津が大敗を喫したのは、「戦は日頃自分たちから搾取している武士の仕事で、自分たちには関係ない」と考える領民の協力を得られなかったからである。板垣は、「士と民が団結できるような国を築かなければならない。そのためには、身分の上下をなくし、権利の平等と行動の自由がある社会こそが必要である」と考え始めるようになった。
 また、共に「征韓論」を主張して敗れた西郷隆盛が西南戦争で命を落としたことも、武人を捨てさせるきっかけになったようだ。
 幕末に誰よりも武力による解決を主張していた武人板垣は、「戦という手法で古い体制を壊すことはできたが、新しい国を創るための方法論は戦ではない」と、より合理的に考え、「自由と平等」の名の下で、日本を導く道を選んだのである。

自由と平等の人「板垣退助」

武人としても、政治家になってからも、板垣が目指したのは、「人が平等に生きていける社会の実現」であろう。おそらく武人のころの「士の平等」といった考えが、「民の平等」へと進化していったに違いない。
 先にも触れたが、板垣家は曹洞宗であったが、板垣自身はプロテスタントの教えも学んだようである。
 板垣にとってプロテスタントは、「神の前に全ての人間は平等である」というキリスト教の教えを前提に、偶像崇拝ではなく、「信じる心のみが人を救う教え」と映っていたようだ。
 「見えない何物かが人を平等にする」のではなく、「自分の心のあり方が人を平等にする」という教えが、彼の合理主義とあいまってより明確に彼の行動を加速させていく。
 帝国議会開設に向けて高知に戻っていた板垣は、初の衆議院議員総選挙に対応した後、立憲自由党を再興、翌年には自由党に改称して党首に就任した。
 自由党は第二次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣する。
 理想とする社会を実現するために有効ならば、どのような手段を取ることもいとわない板垣は、長く対立していた大隈重信とも連携する。日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣し、政務に尽くすことになる。
 残念ながら、自由民権運動の思想は、「基本的人権」を定めた日本国憲法が施行されるまで、本当の意味で成し遂げられることはなかった。
 が、しかし、この流れを生み出したのは間違いなく板垣退助であろう。

 小説家の海音寺潮五郎などは「板垣は政治家より軍人に向いていたが、功績から推し量れば西郷隆盛と山縣有朋の間ぐらいにおかなければならない。しかし土佐藩に力がなかったため、山縣より上に置くことはかなわず政治家に回された」という主旨のことを述べている。
 案外、このようなことも彼の行動理論を形成し、「自由と平等」を推進する原動力の一つになっているのかもしれない。
第12回 板垣退助
株式会社ジェック定期刊行誌
『行動人』2013年度 春号掲載

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