少年時代の彼は「本当に神罰が下るのか」を確かめるために、稲荷神社のお守りを厠に捨ててみたそうだ。
また、わんぱくすぎた彼は藩からは二度の処罰を受けるが、そのうちの一つは「神田村に蟄居」というもの。十九の彼は「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など、当時一緒に食べると死ぬと信じられていた迷信を打ち破るために、わざわざ大勢の人の目の前で食べてみせ、無害であることを証明したともいう。
板垣の家は曹洞宗であった。曹洞宗の本質は「仏心」である。
人は「仏の心」を持って生まれている。人が生きるということは、この仏心のまま、自分の命を大切にするように、全ての命を大切にして生きることである、と平等の心を説いている。
上士と郷士の身分が明確に分離されていた土佐藩の中で板垣は上士であったが、郷士に対し寛大だったということは有名である。
彼の中にある行動理論は
「人は自由平等に生きるべき存在である(観)。また人は互いの自由と平等を守り合う存在であるべきである(観)」ゆえに、
「自分が動き始めることで(因)、世の人にその機会を提供できるはずである(果)」
「まず自らが行動せよ(心得モデル)」というものである。
甲斐武田家の重臣を遠祖に持ち、幼い頃は、学問より相撲を取ったり、勝負事を好んで母親を困らせた「わんぱく者」が、何を成し遂げていったのか、その軌跡を見てみたい。
武人の合理
板垣退助といえば真っ先に思い浮かぶのは「板垣死すとも自由は死せず」というフレーズであろう。憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障など、自由民権運動と呼ばれる政治的運動の中心的人物でもある彼はしかし、元々は居合いをよくする武人であった。
戊辰戦争では土佐藩兵を率い、総督府の参謀として従軍した。当時は「乾」姓を名乗っていたが、甲府城を掌握した慶応四(一八六八)年、「旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して民衆の支持を得た方がよい」と考え、もともとの姓である板垣に戻した。この策は新選組の撃破だけではなく、旧武田家家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちを懐柔するのにも効果的な打ち手であった。人の心の機微を押さえ、理にかなった見事な策というほかない。
その後も、三春藩の無血開城、仙台藩・会津藩の攻略などの軍功を挙げている。
明治元(一八六八)年には藩陸軍総督となったが、賊軍となった会津の心情をおもんばかり名誉回復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であった。
会津をつぶすことが目的ではなく、士の差別を生み出す幕藩体制を壊すことが目的である以上、会津の名誉回復は彼にとって何一つ矛盾した行為ではなかったに違いない。
余談ではあるが、維新後多くの会津人が、感謝の意から土佐を訪れている。
そんな武人板垣は、征韓論で敗れたことをきっかけにその職を辞し、その後自由民権運動へと走り始める。