「3つの言い訳」とその問題点
(1)これは指導の一環であるいちばん多い「言い訳」は、「パワハラではなく、指導の一環だ」というものだ。
パワハラ行為が行われていたかどうかの判断が難しいのは、単なるいじめ、嫌がらせではなく、指導の一環として行われている場合が多いからだ。正当な指導であっても、注意された側が精神的苦痛を感じ、「パワハラだ」と会社に訴えてくることはありうる。
しかし、「指導だ」といえばなんでも通るわけではない。本人は指導のつもりでも、正当な指導の範囲から逸脱しているのは、次のような場合だ。
・暴力・暴言
・相手の人格を否定する
・雇用に対する不安を起こさせる言い方をする
・長過ぎる説教や、人前で大声で叱るなど、やり方が指導として不適切
これらの根底にあるのは、「指導の効果をまったく考えていない」ということだ。業務として適正な指導とは、指導に対して相手が納得して従い、問題点があるのならそれを直していくことである。そうではなく、上で述べたような方法を「指導だ」と言っているのならば、そもそも指導が何かということをわかっていない。
人間は、自分の意見を聞いてもらい、尊重されていると感じたときに、はじめて仕事に対する意欲も出てくるし、力不足の部分があれば「直そう」という素直な気持ちにもなる。感情を傷つけられ、怒りや不安が心の中に渦巻いている状態で、仕事に集中できるかどうか、考えてみればすぐにわかることだ。自分の感情をぶつけて、相手が傷つくのを見て満足するのは、指導ではない。
「自分の指導は正しい。従わない相手に問題がある」という考えに固執しているようでは、パワハラかどうという以前に、指導力がないのは明らかだ。
(2) 親しいからこそのコミュニケーションである
次によく出てくるのが、「相手とはよい人間関係があるのだから、少しくらいきつい言い方をしても問題ないはずだ」というものだ。「きつい言い方」だけでなく、「からかい」や「いじり」のつもりでいる場合も多い。
自分の話を従順に、場合によっては「にこにこして聞いている」から、相手は自分に親しい感情を持っているというのは、立場の強弱を考えた場合、強い側の勘違いであることが多い。
自分が入社したばかりの頃、若かった頃、うるさい先輩や上司に対してどのような態度をとっていたか思い出せば、「従順」や「笑顔」は、親しみではなく「忖度の結果」であるとすぐにわかるのではないだろうか。
また、このように相手との距離を読み違えている人に、往々にして見られる特徴は、相手の感情に無頓着だということだ。部下や後輩に対して、表情や言葉に注意し、どのような気分でいるのか観察するということは、不要な気配りだと思っている。
指示・指導する側の責務を考えるとこれの考えは逆なのだが、そこに気づいていない。つまり指導力の欠如が、ここにも現れている。
(3)自分は被害者だ
「何も悪いことをしていないのに陥れられた」、「相手を信用していたのに、裏切られた」。このような言葉も、よく聞かれる。「パワハラの被害を受けている」と相談した側に悪意がある、という意識だ。
もちろん、部下の側に悪意があって、わざと「パワハラだ」と騒ぎ立てるという可能性はゼロではない。しかし、実際の事案を見ると、多少おおげさにすることはあっても、事実無根ということはほとんどない。
上司や先輩に対して、パワハラの被害を申し立てるということで、被害者の側は何を得るのか。職場にいづらくなる危険を冒してまでするようなことだろうか。そう考えると、自分の責任を顧みず、他者、それも自分より立場の弱い者に責任を転嫁しようとする、指導する側としてあるまじき心理状態が見えてくる。
また、怒鳴ったり暴言を吐いたりというパワハラ行為は認めたものの、「相手が自分を怒らせるような行動をとるからだ」というパターンもある。
パワハラの被害者にミスが多く、指導してもなかなか改善しない場合は特に、人事労務担当者や経営陣が行為者に同情的になりがちだ。しかし、「相手が自分を怒らせる」という、自分の責任を放り出した、甘ったれた考え方の問題点に気づかないようでは、解決の道は遠い。
パワハラは「職場内の優位性を背景に行われる」という定義に、もう一度立ち返っていただきたい。