かつて日本を代表する名門企業グループのドンとして,数十年の長きにわたって君臨した経営者がいた。80歳を過ぎてなおも会長職にとどまり,理由を聞かれるとこんなふうに述べた。
「まだ後継者が育っていないからね。ぼくが頑張るより仕方がない」仕方がないという割には,ずいぶん得意そうな口調だった。
長年トップの座にありながら「後継者が育っていない」とは,どういうことか。自分が育てていなかったということだ。さらにいえば,育てようとしなかったということでもある。上に立つ者として最も重要な任務を果たさなかったのだから,そう指摘されても仕方がない。
では,どうすれば人は育つのか。どう心がければ,人は自然に伸びるのか。人材育成を考える最良のサブテキストとして,私はよく古代ギリシャの哲学者ソクラテスの本をお勧めしている。ソクラテスの本といっても,ソクラテス自身は 1 冊も書き残さなかった。
弟子のプラトンが師匠の言行録として記した何冊かの書物のことだ。
『ソクラテスの弁明』『クリトーン』『パイドーン』,どれも読みやすい対話式の物語になっている。手に取ってみれば分かる通り,ソクラテスが試みたのは,どのように語れば相手を正しい思考に導き,真理に到達させることができるか,ということだった。その方法論を箇条書きにしてみると,(1)まずキーワードを相手に定義させる,(2)相手に自分の頭で考えさせる,(3)三段論法を駆使して正しい考え方の道筋を示す,(4)新しい発見に至らしめる,となる。
 言葉の定義,論理思考,分析的な物の見方など基本的な姿勢をレクチャーし,あとは相手に考えさせる。ソクラテス自身は補助的な役割を演じるにすぎない。これが「ソクラテスの助産術」と呼ばれる有名な方法論である。相手に新しい発見を生ませるため助産師に徹するところから名づけられた。知の発見という「出産」には長い時間を要する。ソクラテスは常に忍耐強く相手に付き合おうとした。ソクラテスが自分で解答を出すのはいとも簡単なことだが,大切なのは解答そのものではない。人が自分の頭で考え,「なるほど,そういうことだったのか」という新鮮な驚きとともに,自ら解答に至ることなのだ。

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