本田 由紀著
ちくま新書
777円
ちくま新書
777円
現在刊行されている教育と雇用に関する本の中で、名著に数えて良い本だと思う。
日本では教育と雇用はつながっている。高卒にしても大卒にしても教育終了とともに就職する。雇用の問題は経済サイドに属し、豊富なデータがそろっているが、教育問題はどちらかというとイデオロギーや理念が先行し、「こうあるべきだ」という「べき 論」が多い。現実に起こっている問題を「そうあるべきではない」と否定するから建設的な議論にならず、停滞したままだ。
本書は異なる。現実を注視し、縦断的(歴史的)、横断的(国際的)に日本の教育を論じる。
「日本で長らく見失われてきた「教育の職業的意義」の回復が今まさに必要とされている」と著者は序章「あらかじめの反論」で述べている。新卒採用ではあまり学生の専門性を重んじないとしても、教育の職業的意義を肯定する企業人は多いだろう。しかし教育界ではそうではないらしい。代表的な考え方を5つの「否定的反応」として「あらかじめの反論」で紹介し、その反論に対する著者の反論を書いている。これがおもしろい。
●否定的反応(1)「教育には職業的意義は不必要だ」→教育はもっと高尚な、人格を形成し教養を高めるためのもの、という考え方。
●否定的反応(2)「職業的意義のある教育は不可能だ」→仮に必要だとしても、仕事の世界の現実を教えることはできない、という考え方。
●否定的反応(3)「職業的意義のある教育は不自然だ」→職業選択をできるだけ遅らせることを望む学習者の自然なニーズに反する、という考え方。
●否定的反応(4)「職業的意義のある教育は危険だ」→若者を体制に適合的な人材に育て上げるのは問題、とする考え方。
●否定的反応(5)「職業的意義のある教育は無効だ」→教育の職業的意義を高めても労働市場を変えられないのだから、労働問題は解消されない、という考え方。
5つの否定的反応に対する著者の反論は、買って読んでもらいたい。日本の教育界のイデオロギーを知ることができ、この部分だけでも読む価値はある。
著者は教育社会学を専門とする東大教授だが、教育界のなかではやや異端の立場らしい。
本書は序章で教育の職業的意義を否定する論拠に反論した上で、5章構成を取っている。各章の論旨を簡単に紹介しておこう。
●第1章 なぜ今「教育の職業的意義」が求められるのか→若年労働市場を分析し、1990年代初頭までと以降とで様変わりした現実を分析。「ジョブなきメンバーシップ」原理の正社員は明確なジョブが規定されないために長時間労働に苦しみ、「メンバーシップなきジョブ」の非正社員は雇用の不安定と低賃金にあえいでいる。
●第2章 見失われてきた「教育の職業的意義」→明治期からの教育の歴史。高度成長期から1990年前後にかけて「日本的雇用慣行」が成立する。その過程で教育歴と職務の対応が崩壊する。そして「教育の職業的意義」への関心は後退した。
●第3章 国際的に見た日本の「教育の職業的意義」の特異性→世界の中で日本のように「教育の職業的意義」が軽視されている国はない。著者は「異様」という言葉を使っている。
●第4章 「教育の職業的意義」にとっての障害→一般に「良きもの」とされることが多い「キャリア教育」について論じている。考えさせられる。
●第5章 「教育の職業的意義」の構築に向けて→「柔軟な専門性」をキーワードに今日に必要とされる「教育の職業的意義」を具体的に考えている。
本書の感想はWebにたくさん書き込まれており、著者を「ラディカル」とする評価もあるが、わたしはそうは思わない。正論だと思う。正論だが、これまでの常識と異なっており、常識にとらわれる大人にはラディカル、過激に聞こえるのだろうと思う。
たとえば第4章では「キャリア教育」を取り上げ、論難している。一般にキャリア教育は必要なものと考えられており、大学は当然として小中高でも強化されている。ところが著者は、キャリア教育が「教育の職業的意義」を高める上で障害になりかねないと主張する。なぜ障害になるのか?
まずキャリア教育とは何かをはっきりさせておこう。本書144ページにキャリア教育の目標が書かれている。それは、
――「勤労観・職業観」の形成を中心に据えつつ、「人間関係形成能力」「情報活用能力」「意思決定能力」「将来設計能力」などの「汎用的・基礎的能力」の育成を含んでいる。さらに、政策文書によっては、「全人的な成長・発達」「自立意識の涵養と豊かな人間性の形成」「学習意欲の向上」など、およそ望ましい事柄であれば何でも含むような、それゆえ茫漠としたものである。――
教育現場ではキャリア教育は肯定的に受け止められている。しかし実際に高校の進路指導では回答者(教師)の98.8%が「将来のことや職業のことを考えなさい」を生徒に言い、「自分のやりたいことや向いていることを探しなさい」(95.8%)、「自分の進路なのだから自分の責任で決めなさい」(85.7%)と指導している。つまりキャリア教育は、「やりたいことを考えて、自分で決めなさい」という規範や圧力なのである。
生徒は「勤労観・職業観」「意思決定能力」「将来設計能力」を“持たねばならない”と要求されている。生徒はちゃんとそのような能力を身に付けているのだろうか。
高校の進路指導で悩んだ項目を、経産省が大学生に対して調べたデータがある。一番多いのは学力レベルの悩みだが、約半数は「自分の適性(向き・不向き)がわからないこと」「自分の就きたい職業がわからないこと」「自分の進みたい専門分野がわからないこと」に悩んでいた。
「よきもの」を持たねばならないというキャリア教育の理念は否定しにくいが、「持て」と要請された生徒は、持つための手段・方法が示されないので混乱と困惑を増大させているのだ。
大学のキャリア教育も高校の延長線上にある。156ページに川喜多喬法政大学教授の上げる大学のキャリア教育の問題点が紹介されているが、かなり重要な指摘だと思う。以下に紹介し、趣旨を説明しておこう。
(1)就職技法重視→教えていることは、結局エントリーシートや面接対策のテクニック。
(2)安易な適職選択→業界研究や適職テストで業種、職種を決めさせようとする。
(3)視野を狭める自己分析→自分探しのループにはまり、学生の変化の芽をつぶしている。
(4)物見遊山気分の職業知識教育→安易にインターンシップなどを推奨する。体験すればうまくいくというものではないのに。
(5)職業教育べっ視→キャリアセンター機能を強化しているのに、職業教育は一段下に見ている。
(6)本人を責める職業倫理教育→学生に「働くことの意味」を教え込もうとしている。教える大人が一段上の感覚。
(7)狭義のキャリア教育ではできない積極態度教育→就活で学生に積極的になれと指導するが、そんな積極性はキャリア教育ではなく、正課や課外活動で養われるもの。キャリア教育で詰め込もうとするのはおかしい。
著者の考える進路選択は、キャリア教育とは異なる。本来の進路選択とは「若者が自分自身と世の中の現実とをしっかり摺り合わせ、その摩擦やぶつかり合いの中で、自分の落ち着きどころや目指す方向を確かめながら進んでゆくこと」だ。その「しっかりとした摺り合わせが生じるためには2つの条件が必要だ。ひとつは「職業人・社会人としても自分自身の輪郭が暫定的にでも一定程度定まっている」こと。もうひとつは「世の中の現実についてのリアルな認識や実感」である。
ところが現在のキャリア教育は、そのような自分の輪郭や現実認識を与えることなく(選択のための手がかりがないまま)、ただ選択を強いていると著者は言うのだ。これはキャリア教育への本質的な批判である。そもそも現在の大学には、若者に現実認識を与える機能が欠如している。
本書を読み進めて著者の論点を理解していくと、大きな問題が見えてくる。著者は「このままでは、教育も仕事も、若者にとって壮大な詐欺でしかない。私はこのような状態を放置している恥に耐えられない」と書いている。しかし本書は問題の構図を示しているが、具体的な解法を書いていない。著者は「この本で示したような考え方、見方を肯定的に受け止めてくれる人々がいたならば、この考え方、見方を具体的な形にして根づかせてゆくことに力を貸してほしい」と言っている。読者は、なにができるかを問われているのだ。
日本では教育と雇用はつながっている。高卒にしても大卒にしても教育終了とともに就職する。雇用の問題は経済サイドに属し、豊富なデータがそろっているが、教育問題はどちらかというとイデオロギーや理念が先行し、「こうあるべきだ」という「べき 論」が多い。現実に起こっている問題を「そうあるべきではない」と否定するから建設的な議論にならず、停滞したままだ。
本書は異なる。現実を注視し、縦断的(歴史的)、横断的(国際的)に日本の教育を論じる。
「日本で長らく見失われてきた「教育の職業的意義」の回復が今まさに必要とされている」と著者は序章「あらかじめの反論」で述べている。新卒採用ではあまり学生の専門性を重んじないとしても、教育の職業的意義を肯定する企業人は多いだろう。しかし教育界ではそうではないらしい。代表的な考え方を5つの「否定的反応」として「あらかじめの反論」で紹介し、その反論に対する著者の反論を書いている。これがおもしろい。
●否定的反応(1)「教育には職業的意義は不必要だ」→教育はもっと高尚な、人格を形成し教養を高めるためのもの、という考え方。
●否定的反応(2)「職業的意義のある教育は不可能だ」→仮に必要だとしても、仕事の世界の現実を教えることはできない、という考え方。
●否定的反応(3)「職業的意義のある教育は不自然だ」→職業選択をできるだけ遅らせることを望む学習者の自然なニーズに反する、という考え方。
●否定的反応(4)「職業的意義のある教育は危険だ」→若者を体制に適合的な人材に育て上げるのは問題、とする考え方。
●否定的反応(5)「職業的意義のある教育は無効だ」→教育の職業的意義を高めても労働市場を変えられないのだから、労働問題は解消されない、という考え方。
5つの否定的反応に対する著者の反論は、買って読んでもらいたい。日本の教育界のイデオロギーを知ることができ、この部分だけでも読む価値はある。
著者は教育社会学を専門とする東大教授だが、教育界のなかではやや異端の立場らしい。
本書は序章で教育の職業的意義を否定する論拠に反論した上で、5章構成を取っている。各章の論旨を簡単に紹介しておこう。
●第1章 なぜ今「教育の職業的意義」が求められるのか→若年労働市場を分析し、1990年代初頭までと以降とで様変わりした現実を分析。「ジョブなきメンバーシップ」原理の正社員は明確なジョブが規定されないために長時間労働に苦しみ、「メンバーシップなきジョブ」の非正社員は雇用の不安定と低賃金にあえいでいる。
●第2章 見失われてきた「教育の職業的意義」→明治期からの教育の歴史。高度成長期から1990年前後にかけて「日本的雇用慣行」が成立する。その過程で教育歴と職務の対応が崩壊する。そして「教育の職業的意義」への関心は後退した。
●第3章 国際的に見た日本の「教育の職業的意義」の特異性→世界の中で日本のように「教育の職業的意義」が軽視されている国はない。著者は「異様」という言葉を使っている。
●第4章 「教育の職業的意義」にとっての障害→一般に「良きもの」とされることが多い「キャリア教育」について論じている。考えさせられる。
●第5章 「教育の職業的意義」の構築に向けて→「柔軟な専門性」をキーワードに今日に必要とされる「教育の職業的意義」を具体的に考えている。
本書の感想はWebにたくさん書き込まれており、著者を「ラディカル」とする評価もあるが、わたしはそうは思わない。正論だと思う。正論だが、これまでの常識と異なっており、常識にとらわれる大人にはラディカル、過激に聞こえるのだろうと思う。
たとえば第4章では「キャリア教育」を取り上げ、論難している。一般にキャリア教育は必要なものと考えられており、大学は当然として小中高でも強化されている。ところが著者は、キャリア教育が「教育の職業的意義」を高める上で障害になりかねないと主張する。なぜ障害になるのか?
まずキャリア教育とは何かをはっきりさせておこう。本書144ページにキャリア教育の目標が書かれている。それは、
――「勤労観・職業観」の形成を中心に据えつつ、「人間関係形成能力」「情報活用能力」「意思決定能力」「将来設計能力」などの「汎用的・基礎的能力」の育成を含んでいる。さらに、政策文書によっては、「全人的な成長・発達」「自立意識の涵養と豊かな人間性の形成」「学習意欲の向上」など、およそ望ましい事柄であれば何でも含むような、それゆえ茫漠としたものである。――
教育現場ではキャリア教育は肯定的に受け止められている。しかし実際に高校の進路指導では回答者(教師)の98.8%が「将来のことや職業のことを考えなさい」を生徒に言い、「自分のやりたいことや向いていることを探しなさい」(95.8%)、「自分の進路なのだから自分の責任で決めなさい」(85.7%)と指導している。つまりキャリア教育は、「やりたいことを考えて、自分で決めなさい」という規範や圧力なのである。
生徒は「勤労観・職業観」「意思決定能力」「将来設計能力」を“持たねばならない”と要求されている。生徒はちゃんとそのような能力を身に付けているのだろうか。
高校の進路指導で悩んだ項目を、経産省が大学生に対して調べたデータがある。一番多いのは学力レベルの悩みだが、約半数は「自分の適性(向き・不向き)がわからないこと」「自分の就きたい職業がわからないこと」「自分の進みたい専門分野がわからないこと」に悩んでいた。
「よきもの」を持たねばならないというキャリア教育の理念は否定しにくいが、「持て」と要請された生徒は、持つための手段・方法が示されないので混乱と困惑を増大させているのだ。
大学のキャリア教育も高校の延長線上にある。156ページに川喜多喬法政大学教授の上げる大学のキャリア教育の問題点が紹介されているが、かなり重要な指摘だと思う。以下に紹介し、趣旨を説明しておこう。
(1)就職技法重視→教えていることは、結局エントリーシートや面接対策のテクニック。
(2)安易な適職選択→業界研究や適職テストで業種、職種を決めさせようとする。
(3)視野を狭める自己分析→自分探しのループにはまり、学生の変化の芽をつぶしている。
(4)物見遊山気分の職業知識教育→安易にインターンシップなどを推奨する。体験すればうまくいくというものではないのに。
(5)職業教育べっ視→キャリアセンター機能を強化しているのに、職業教育は一段下に見ている。
(6)本人を責める職業倫理教育→学生に「働くことの意味」を教え込もうとしている。教える大人が一段上の感覚。
(7)狭義のキャリア教育ではできない積極態度教育→就活で学生に積極的になれと指導するが、そんな積極性はキャリア教育ではなく、正課や課外活動で養われるもの。キャリア教育で詰め込もうとするのはおかしい。
著者の考える進路選択は、キャリア教育とは異なる。本来の進路選択とは「若者が自分自身と世の中の現実とをしっかり摺り合わせ、その摩擦やぶつかり合いの中で、自分の落ち着きどころや目指す方向を確かめながら進んでゆくこと」だ。その「しっかりとした摺り合わせが生じるためには2つの条件が必要だ。ひとつは「職業人・社会人としても自分自身の輪郭が暫定的にでも一定程度定まっている」こと。もうひとつは「世の中の現実についてのリアルな認識や実感」である。
ところが現在のキャリア教育は、そのような自分の輪郭や現実認識を与えることなく(選択のための手がかりがないまま)、ただ選択を強いていると著者は言うのだ。これはキャリア教育への本質的な批判である。そもそも現在の大学には、若者に現実認識を与える機能が欠如している。
本書を読み進めて著者の論点を理解していくと、大きな問題が見えてくる。著者は「このままでは、教育も仕事も、若者にとって壮大な詐欺でしかない。私はこのような状態を放置している恥に耐えられない」と書いている。しかし本書は問題の構図を示しているが、具体的な解法を書いていない。著者は「この本で示したような考え方、見方を肯定的に受け止めてくれる人々がいたならば、この考え方、見方を具体的な形にして根づかせてゆくことに力を貸してほしい」と言っている。読者は、なにができるかを問われているのだ。
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