維新の賢侯

中岡慎太郎・坂本龍馬の仲介により、薩摩藩と、土佐藩が会談し、幕府排除と王政復古のための薩土同盟が成立する。ここから土佐全体が徐々に倒幕路線に傾いていくことになる。

しかし、歴史主義者である彼の中には、「薩長は関が原の敗北者であり、幕府に対する二百数十年の遺恨があるが、土佐藩は関が原のおかげで興っている。徳川の恩は忘れることは出来ない。」という想いある。つまり、「徳川は恩人である(観)。徳川の沙汰によって山内家は興っている(因果理論)。故に、徳川を救わねばならない(心得モデル)」というのが、彼自身の論理である。これが、彼を倒幕へと決断させなかった。

しかし、悲しいことに時代の趨勢を読む力を併せ持っていた彼には、倒幕へと傾いた時代の勢いを止めることも出来なかった。
その状況で、「大政を奉還する」という策は、まさに容堂にとって妙案であった。その案に彼はすがり、行動し、一時的にはことが成ったかに見えたが、一度転がり出した時代の歯車は止まらなかった。エネルギーは消費されない限り消えることはない。

慶応四(一八六八)年、旧幕府側の発砲から戊辰戦争が始まる。容堂は土佐藩兵に対し、これには加わるなと厳命するも、板垣退助がこれを無視、新政府軍に従軍する。
するとこれを聴いた容堂は、江戸攻めへ出発する土佐藩兵に「天なお寒し。自愛せよ」の言葉を与えるのである。

鯨海酔侯の行動理論

武と知の才を併せ持ち、戦国の詩篇の登場人物としての自らを描き、家中に対しては韓非子の行動理論であたる。徳川への感謝と時代の流れの間で東へ向かったり、西へ傾いたり、当時の志士から「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と言われた「鯨海酔侯」の複雑さはどこから生まれたのか。

彼自身、自分のことを韓非子的行動理論で見ていたのであろう。つまり「我は己の足で立つ事が出来ない者である(観)。だから、我が意で物事を決めたところで(因)時流を変えることなどできない(果)。流れに身をおくのが一番(心得モデル)」というものである。

自らを描いた彼の詩がある。

壮士あにかくの如くあらんや
懦夫のみこの病あり
医薬服すれどもきかず
鬱積、もとよりわが性
日々唯、酒を飲む

壮士でありたいが、懦夫であることを知っているがために、腹立たしくも酒を飲むしかない、という意である。

時流に流される行動理論とは、決断することの出来ない行動理論である。
第7回 山内容堂
株式会社ジェック定期刊行誌
『行動人』2011年度 冬号掲載

※本記載の無断転載・利用を禁じます。
 ご利用希望の方は株式会社ジェックまでお問合せ下さい。
  • 1
  • 2

この記事にリアクションをお願いします!