國を守る人
一〇八四年に成立した歴史書『資治通鑑』によると、定軍山の戦いでは黄忠(劉備に仕えた将軍)を救出し見事な撤退戦と空城計(※2)を策して、「子竜は一身これ胆なり」と賞賛され、軍中では虎威将軍と呼ばれるようになった。彼の動きを支配する行動理論はどのようなものだったのだろうか?
推し量るに彼は、「己は猪武者である」、「民は太平の世を望んでいる」、「その膂力を優れた者を守るために発揮すれば、民を苦しみから救うことが出来る」、「主君に身命をささげよ」というものであったのではないか。
この行動理論が彼を、劉備とともに戦い、諸葛亮の軍略を実現し、劉禅を擁する行動へと駆り立てるのである。
関羽が亡くなり、張飛が逝き、劉備が没した後も、趙雲は諸葛亮とともに劉禅を支え、蜀の國を守り続けたのだ。
彼は自身が言うような「猪武者」ではなかったように思われる。信義を重んじ、機略に富み、若き兵を育てる力もある。一軍の将として優れた器の持ち主である。
しかし彼は決して領袖になろうと欲することはなかった。
己の使命は「守る」ことにある。これに一つの疑問もなく、「守るべき人」を徹底的に「守り」続けたのである。
三國の中で、戦力としては最も過少であった蜀の國は、趙雲の「守り」なくしては成り立たなかった。
これらは全て、趙雲の持つ「己は猪武者である(自分観)」「その膂力を優れた者を守るために発揮すれば(因)、民を苦しみから救うことが出来る(果)」「主君に身命をささげよ(心得モデル)」によって為されたのである。
彼の行動理論が、劉備を、諸葛亮を、蜀の國を守ったのである。
民を守る人
「眉太く、顎は割れ、肉付きよく・・・」称される容姿を持つ趙雲は、弓や剣での活躍も記されてはいるが、槍の名手とも知られ、後世、彼の槍を「天涯にも海の角にも敵なし」との意で、「涯角槍」(がいかくそう)と讃えた。主のみならず、配下の将、領民の誰からも称え尊ばれ、皆にあこがれられた漢であるらしい。
時には孫権(呉の初代皇帝)を討とうとする劉備を諫めることもあったという。
蜀建興六(二二八)年、趙雲は箕谷で敗北はしたものの、よく守り、大敗を喫するには至らなかった。
『趙雲別伝』によると、物資を失うことなく退却を成し遂げたとある。諸葛亮は恩賞として軍の将兵にその物資を分配するよう指示したが、趙雲は「敗戦にあって恩賞を出すのは道理に合わない」と固辞し、民の冬の備えに充てるよう、進言する。
しかも撤退戦では、赤崖から北方百余里に渡るかけ橋を焼き壊して魏軍の追撃を断ち、その後しばらくは赤崖の守りについた。さらに将兵とともに屯田(※3)をも行ったという。
これらのことから考えるに、趙雲には「國は民を守るためのものであり、城は國を守るためのものであり、将は城を守るためのものである。将が民を救うことをその本道から外してはならない」という使命感が潜んでいるのではないか。
「彼が守るべき」と考えていた真の相手は君主ではなく「民」なのであろう。
「國を守る人」が持つ行動理論は「民を守る」というものなのである。
※1 諡が贈られなかった君主に対する便宜上の呼称。後継の主君の意もある
※2 兵法三十六計の第三十二計にあたる戦術
※3 兵士による耕地開墾
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