國を守る行動理論
 血征袍を染め甲を通して紅なり。
 当陽誰か敢えて与に鋒を争わん。
 古来陣を衝いて危主を扶く。
 只有り常山の趙子竜。

 「雲霞のごとき敵陣をものともせず、単騎で駆け抜けようとは。討つな。生捕りにせよ。生捕りがかなわずば行かせよ。」(柴田錬三郎『英雄ここにあり』講談社文庫より)
三国志の英雄「曹操」をしてそう叫ばせた人物は、身の丈八尺(約184cm)の体格と神々しいまでの容姿であったという。
「常山にその人あり」といわれた、蜀五虎将の一人、趙雲(字は子龍)である。

主君を守る人

趙雲が身命を投げ打って守る主君、劉備(字は元徳、蜀の初代皇帝)と出会うのは、公孫瓚(後漢末期の武将)の配下として騎兵隊長を務めていた時だ。幾多の戦いの後、時を経て兵を率い劉備の配下となり、以後、彼は劉備の腹心として、将を敬し、軍師を支え、国を守る。劉備亡き後も、後主(※1)劉禅(劉備の息子)に良く仕え、最期の時まで支えぬく。
 趙雲の死を迎え、「私は右の腕を失った。蜀の宮殿はその屋根が傾いたことになる」と諸葛亮(字は孔明)は崩れ落ちた。
 いかに諸葛亮の知能があったとしても、その意図を刀槍で表すことのできる趙雲がいなければ、蜀の国はその存在を許されなかったのではないか。

 趙雲を語る上で最も有名なものは、長坂坡(ちょうはんは)の戦いであろう。
 建安十三(二〇八)年、劉表(後漢末期の政治家)の命により、新野城を守備していた劉備は、敵軍の策略により、最前線で孤立する。好機と見た曹操側の怒涛のごとき攻勢に劉備は城を捨てざるを得ず、曹操軍はもぬけの殻となった新野城へ意気揚々と入城する。圧倒的な曹操軍の勝利である。
 が、これは諸葛亮の計略であった。

 新野城へと誘い込まれた曹操軍は、伏兵の反撃に混乱をきたし、一転て撤退せざるを得なくなるのだが、
 一方で劉備軍も、連なる曹操軍の攻撃に「城を守る事適わず」と判断し新野を引き払って、劉琮(劉表の少子)の領地へ後退する。
 結局、曹操軍が新野を陥落せしめるに至り、劉琮は曹操への降伏を決意。
 劉備は樊(はん)城(じょう)を経由して、襄(じょう)陽(よう)へと向かうが、劉琮から入城を拒否され追われてしまう。
 進退窮まった劉備は、新野から付き随う領民を守りながら江(こう)陵(りょう)を目指すが、当陽(とうよう)県(けん)の長坂(ちょうはん)あたりで、曹操軍の攻撃を受けるのである。
 曹操軍の波状攻撃を前にして壊滅的な敗北を喫する。その混乱の最中に、劉備の糜(正室)・甘(側室)両夫人、と息子の阿斗(後の劉禅)、家臣の麋竺らが曹操軍に生け捕られてしまう。
 そこで趙雲は、単騎で夫人らの救出を試み、糜竺・甘夫人を救出、張飛(劉備に仕えた武将)に送り届けた後、糜夫人・阿斗を救出するため、再び馬首を返した。
 立ちはだかる曹操軍の諸将と切り結びながら二人を発見するも、重傷を負っていた糜夫人は、阿斗を託し、井戸へと身を投げる。
 趙雲は己の無力に歯噛みしつつも、阿斗を擁して劉備の元へと無事に帰参したのだった。
 この際に、曹操が出した魏軍への指示が、冒頭の小説のくだりである。

 その後も趙雲は、多くの戦場で主君を守り、敵軍を打ち破る。義に厚く信を尊ぶ、将軍であった。

國を守る人

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