戦人(いくさびと)上杉輝虎
この男は「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗にや」と評された。
「大天狗」「六尺近い偉丈夫」などと言われているが、其の実五尺二寸(156cm)ほどであったという。「大天狗」とは身体のことではなく、内から発せられる心気の大きさであったのだろう。
幼名虎千代。1530年越後春日山城(現新潟県上越市)に長尾為景の四男として生を受けた、越後の龍、上杉謙信のことである。
この男は「音に聞こえし大峰の五鬼、葛城高天の大天狗にや」と評された。
「大天狗」「六尺近い偉丈夫」などと言われているが、其の実五尺二寸(156cm)ほどであったという。「大天狗」とは身体のことではなく、内から発せられる心気の大きさであったのだろう。
幼名虎千代。1530年越後春日山城(現新潟県上越市)に長尾為景の四男として生を受けた、越後の龍、上杉謙信のことである。
15歳の初陣
1542年、父為景が病没。敵対勢力が迫る中であったため、甲冑を着けて葬儀に臨まざるを得ない内紛状態であった。兄の晴景に政情を治める力はなく、元服し景虎を名乗った虎千代は出立。目的は反勢力を制圧することにあった。
景虎は敵本陣の背後を急襲。同時に本隊を突撃させ、見事壊滅させる。わずか15歳の龍は見事に初陣を飾ることになる。
「義の戦人」
内紛はその後も続く。重臣である黒田秀忠が謀反を起こしたのである。討伐に出陣する景虎の勢いに黒田はすぐさま降状すると、それを赦し、陣を引いた景虎。しかし黒田は再び謀反を起こす。なによりも義を重んじる景虎は、この裏切りを赦さず、黒田一族を滅ぼすことになる。謙信といえば、もっとも有名な逸話は「敵に塩を送る」であろう。
敵対している武田信玄の領地、甲斐・信濃は内陸ゆえに塩が採れず、そこに目を付けた今川氏真が、塩の供給を断つという手を打つ。
戦国の世として当然の兵法であるはずが、謙信の目には氏真の手は戦人として卑怯な行為であると映った。戦は正々堂々、戦いで決着をつけるべき、と越後の塩を送ったというものである。
余談ながら、武田との川中島の戦いは、12年にわたり5度も行われている。布施の戦い(八幡の戦い)と呼ばれる1戦目を皮切りに、犀川の戦い、上野原の戦い、八幡原の戦い、と続き、塩崎の対陣と呼ばれる五戦目も決着がつかず、双方ともに退陣となっている。
謙信と信玄は好敵手という描かれ方をしていることが多いが、謙信は信玄を毛嫌いしていたという説もある。自らの覇道を進むため、敵味方をあざむき、実の父をも追いやることもいとわず、権謀術数を駆使する信玄の行動が、謙信の信念に反していたためだといわれている。
戦人謙信の行動理論
謙信には「人の世は義でできている(観)。故にいかなる状況であろうとも義の道を外れれば(因)、それは結果として己を滅ぼす(果)。義を第一とせよ(心得モデル)」という行動理論があった。これが、戦でも政治においても、彼の行動を決定付けた。
越後を支える財源として、謙信は衣料の原材料となる青苧を栽培。日本海経由で全国に広めることで利益を得るなど、殖産においても優れた手腕を発揮し、領民の生活を守ることを第一としている。
彼が戦をするのは、覇道を歩むためではなく、引き受けた職(関東管領職)への忠義と、民を守るためであった。
謙信は青年期まで曹洞宗、林泉寺で天室光育から禅を学び、晩年には真言宗に傾倒。高野山から阿闍梨権大僧都の位階を受けているが、元々は母親虎御前の篤い信仰心の影響のようである。
幼い虎千代は禅の修行そのものよりも、城の模型を用いた城攻めの遊びに熱中し、これが後の戦略眼の素地ともなったと言われるが、定かではない。
曹洞宗の教えは、「人として生を得るということは、仏心(仏さまと同じ心)を与えられてこの世に誕生することを指す。『仏心』とは自分の命と同様に、他の人々や物の命も大切にするという義の精神である。多くの場合、人はその尊さを忘れ、わがまま勝手に暮らし、それが結果として己の苦しみや悩みのもととなっている。日々の生活の中で、自他の命を大切にすることを心がければ、身と心が調えられ、互いに生きる喜びを見いだしていくことができる」というものである。
彼は幼いころから、その教えを日々意識する中で、信念化し、たとえ命を奪い合うしかない戦の世であっても、相手に対して、敬いと義の心を持ってあたっていたのであろう。それ故に義の心を持たない人間には、まさに毘沙門の心を持って対していたのである。
北条氏康は「信玄と信長は表裏常なく、信頼を置くことはできない。しかし謙信だけはひとたび引き受けたら、その身が骨になっても義を通す。それ故、肌着を分けて若い大将の守り袋にさせたい」と言ったという。
上杉家家訓
上杉家家訓16カ条のいくつかを紹介する。「心に物なき時は心広く体泰なり」
人は自分を見失いさえしなければ、心が広々として、体もゆったりするものだ
「心に欲なき時は義理を行ふ」
人は貪欲な気持ちがない時は、誰に対しても思いやりの気持ちが持てるものである
「心に私なき時は疑ふことなし」
人は私心がなければ人を疑う気持ちは起きないものである
「心に驕りなき時は人を敬ふ」
人は驕りの心が無ければ、人の真価を認め敬うことができる
「心に邪気なき時は人を育つる」
人は偏った見方や考え方がない時は、周囲が見ておのずと育つ範となる
「心に迷いなきときは人を咎めず」
人は自らの信念があれば、人を怪しんだり責めたりしないものだ
謙信が持つ人間観そのものを表しているようである。
達筆で和歌の奥義を伝授される一方で、琵琶をよくし文化人教養人としての一面もあったといわれる。
「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」の句を残し、義の戦人は戦国の世を去った。1578年3月のことである。
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