強さと嫉妬深さをあわせ持つ「強い女性」の印象が強い頼朝の妻、北条政子。
伊豆で勢力を誇っていた北条時政の娘であり、伊豆に流されていた源頼朝の妻となり、頼朝の死後も鎌倉政権を守り続けた彼女の行動理論はどのようなものであったのか、考えて見たい。
伊豆で勢力を誇っていた北条時政の娘であり、伊豆に流されていた源頼朝の妻となり、頼朝の死後も鎌倉政権を守り続けた彼女の行動理論はどのようなものであったのか、考えて見たい。
一一八六年、頼朝と対立した義経の愛妾、静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られた。
白拍子の名手である静に頼朝は舞を所望するが、静は首を縦に振らない。その際に説得し、舞を行わせたのは政子である。
政子の説得を受けた静は白拍子を舞うも、「吉野山峰の白雪ふみ分て、入りにし人の跡ぞ恋しき。しづやしづ賤(しづ)のをだまきくり返し、昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を詠うのであった。
激しい怒りをあらわにする頼朝に対し、政子は頼朝と自身との馴れ初めやかつての不安の日々を語り、「静御前の憂いの心は、あの頃の政子の心と同じもの。義経殿の多年の想いを受けて、恋慕し続けるからこそのものである」ととりなすのである。政子は己の情愛だけではなく、人の情愛を解する心を持った女性であった。
源頼朝の正妻であり、「尼将軍」として知られる北条政子。その強さは最愛の頼朝の遺した幕府を守り、日本を発展に導くためのものであったのではないか。
政子は一一五七年、伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれる。政子は伊豆に流されていた頼朝と想いを通わせるも、父・時政は山木兼隆に嫁がせようとするのである。
政子は山木の館へ入るふりをして半年後の夏、輿入れ前夜に屋敷を抜け出し、頼朝の元へ駆けつけるのである。のちに、時政もこれを許し、北条家は頼朝側につくこととなる。
頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いて実権を手にいれると、政子は御台所として頼朝を支える。二男二女の子どもにも恵まれた。
頼朝により政権運営はまさにこれからという一一九九年朝、頼朝は落馬が元で命を落とす。
最愛の頼朝の死により、政子は仏門へと入り「尼御台」と呼ばれるようになる。
以降、政子の想いと力は頼朝が遺した幕府を発展させることだけに注がれることとなる。
政子の中にあるのは「私の使命は頼朝殿が遺した幕府の発展である(観)。故に、あらゆる手段を尽くして、幕府発展を図らなければ(因)、生きる意味はない(果)。頼朝殿の想いを実現せよ(心得モデル)」という行動理論であったに違いない。
頼朝の死後将軍職を継いだのは長男である頼家である。しかし政子は「将軍としての器ではない」と判断する。彼女は頼家を更迭し、次男の実朝を将軍に据えるという行動を示す。
同時に「政治力が未熟な実朝では幕政は支えられない」と考えていた政子は、父の北条時政を執権とする。政治の実権を執権が握る「執権政治」という体制を確立し、幕府を守ろうとするのである。
しかし時代はまだまだ平安の世ではない。何らかの権力を手にした人間は、その権力をより大きくより確実なものとしようとする。時政は己の権力欲に基づいて、自分の妻との子を将軍にしようと画策を始める。
政子はこれを断じて許さず、実父である時政を執権から引退させるのである。
その後、執権は政子の弟である北条義時、義時の息子の泰時が担うこととなり、幕府の政権は落ち着きを見せる。
これらのすべては先の行動理論が彼女を突き動かしているのである。
しかしながら、平安の時期はわずかしか続かず、一二二一年後鳥羽上皇が政治の実権を天皇へ取り戻すべく、義時を討つ命を出し、承久の乱を起こすのである。
東国武士達は天皇の権勢を恐れ朝廷側になびくものまで出始めた。
政子はここでも、頼朝への想いをもとに敢然と行動する。
「あなた方は頼朝殿の御恩を忘れたか。幕府成立がなければあなた方は領土も身分も認めてもらえなかった。頼朝殿が政権を握ったからこそのあなた方の今があろう。恩を忘れ以前と同じ生活をしたいならば、朝廷に着くも良い。御恩と奉公を忘れたものは出てゆくがよい」と断ずるのである。東国武士達は、その魂を揺さぶられ己の弱さを恥じたという。
さらに政子は泰時に対し、京都で戦を起こす指示を出す。
「執権自らが、京に対して敢然と立ち向かうからこそ、皆がついていく」という読み通り、出立時わずか一八騎であった泰時軍は、京に入るころには一九万にまで達した。後鳥羽上皇は負けを悟り、以降幕府は安定を迎える。
この戦いを実質的に勝利に導いたのは、「尼将軍」と呼ばれた政子の決断力と行動力、その奥にある頼朝への想いから創り出された行動理論であった。
政子は政治的判断力や決断力、論理性に優れ、一切の私心も持たず戦略家的能力も長けていたようである。
そしてその背景には、絶対的信念が横たわっており、それが故に人々はその判断に従ったのである。
御台所、尼御台、尼将軍と呼ばれた政子は、わが子をすべて亡くしている。
長女大姫は婚約者である義高が頼朝に殺害され、長い闘病ののち命を落とし、次女三幡は後鳥羽上皇が差し向けた医師に毒を盛られたと言われている(諸説あり)。
長男頼家は伊豆修禅寺に幽閉の後暗殺。さらに次男の実朝は、頼家の子公暁によって暗殺されている。
『吾妻鏡』は「前漢の呂后同様天下を治めた女性」と称賛し、『承久記』では「女性の喜ばしい例である」と評している。
しかし政子自身は「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にない」と最後まで頼朝と子供たちへの想いを述懐している。
彼女の戦いは、頼朝の「遺したもの」を守るための戦いだったのである。
白拍子の名手である静に頼朝は舞を所望するが、静は首を縦に振らない。その際に説得し、舞を行わせたのは政子である。
政子の説得を受けた静は白拍子を舞うも、「吉野山峰の白雪ふみ分て、入りにし人の跡ぞ恋しき。しづやしづ賤(しづ)のをだまきくり返し、昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を詠うのであった。
激しい怒りをあらわにする頼朝に対し、政子は頼朝と自身との馴れ初めやかつての不安の日々を語り、「静御前の憂いの心は、あの頃の政子の心と同じもの。義経殿の多年の想いを受けて、恋慕し続けるからこそのものである」ととりなすのである。政子は己の情愛だけではなく、人の情愛を解する心を持った女性であった。
源頼朝の正妻であり、「尼将軍」として知られる北条政子。その強さは最愛の頼朝の遺した幕府を守り、日本を発展に導くためのものであったのではないか。
政子は一一五七年、伊豆国の豪族・北条時政の長女として生まれる。政子は伊豆に流されていた頼朝と想いを通わせるも、父・時政は山木兼隆に嫁がせようとするのである。
政子は山木の館へ入るふりをして半年後の夏、輿入れ前夜に屋敷を抜け出し、頼朝の元へ駆けつけるのである。のちに、時政もこれを許し、北条家は頼朝側につくこととなる。
頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いて実権を手にいれると、政子は御台所として頼朝を支える。二男二女の子どもにも恵まれた。
頼朝により政権運営はまさにこれからという一一九九年朝、頼朝は落馬が元で命を落とす。
最愛の頼朝の死により、政子は仏門へと入り「尼御台」と呼ばれるようになる。
以降、政子の想いと力は頼朝が遺した幕府を発展させることだけに注がれることとなる。
政子の中にあるのは「私の使命は頼朝殿が遺した幕府の発展である(観)。故に、あらゆる手段を尽くして、幕府発展を図らなければ(因)、生きる意味はない(果)。頼朝殿の想いを実現せよ(心得モデル)」という行動理論であったに違いない。
頼朝の死後将軍職を継いだのは長男である頼家である。しかし政子は「将軍としての器ではない」と判断する。彼女は頼家を更迭し、次男の実朝を将軍に据えるという行動を示す。
同時に「政治力が未熟な実朝では幕政は支えられない」と考えていた政子は、父の北条時政を執権とする。政治の実権を執権が握る「執権政治」という体制を確立し、幕府を守ろうとするのである。
しかし時代はまだまだ平安の世ではない。何らかの権力を手にした人間は、その権力をより大きくより確実なものとしようとする。時政は己の権力欲に基づいて、自分の妻との子を将軍にしようと画策を始める。
政子はこれを断じて許さず、実父である時政を執権から引退させるのである。
その後、執権は政子の弟である北条義時、義時の息子の泰時が担うこととなり、幕府の政権は落ち着きを見せる。
これらのすべては先の行動理論が彼女を突き動かしているのである。
しかしながら、平安の時期はわずかしか続かず、一二二一年後鳥羽上皇が政治の実権を天皇へ取り戻すべく、義時を討つ命を出し、承久の乱を起こすのである。
東国武士達は天皇の権勢を恐れ朝廷側になびくものまで出始めた。
政子はここでも、頼朝への想いをもとに敢然と行動する。
「あなた方は頼朝殿の御恩を忘れたか。幕府成立がなければあなた方は領土も身分も認めてもらえなかった。頼朝殿が政権を握ったからこそのあなた方の今があろう。恩を忘れ以前と同じ生活をしたいならば、朝廷に着くも良い。御恩と奉公を忘れたものは出てゆくがよい」と断ずるのである。東国武士達は、その魂を揺さぶられ己の弱さを恥じたという。
さらに政子は泰時に対し、京都で戦を起こす指示を出す。
「執権自らが、京に対して敢然と立ち向かうからこそ、皆がついていく」という読み通り、出立時わずか一八騎であった泰時軍は、京に入るころには一九万にまで達した。後鳥羽上皇は負けを悟り、以降幕府は安定を迎える。
この戦いを実質的に勝利に導いたのは、「尼将軍」と呼ばれた政子の決断力と行動力、その奥にある頼朝への想いから創り出された行動理論であった。
政子は政治的判断力や決断力、論理性に優れ、一切の私心も持たず戦略家的能力も長けていたようである。
そしてその背景には、絶対的信念が横たわっており、それが故に人々はその判断に従ったのである。
御台所、尼御台、尼将軍と呼ばれた政子は、わが子をすべて亡くしている。
長女大姫は婚約者である義高が頼朝に殺害され、長い闘病ののち命を落とし、次女三幡は後鳥羽上皇が差し向けた医師に毒を盛られたと言われている(諸説あり)。
長男頼家は伊豆修禅寺に幽閉の後暗殺。さらに次男の実朝は、頼家の子公暁によって暗殺されている。
『吾妻鏡』は「前漢の呂后同様天下を治めた女性」と称賛し、『承久記』では「女性の喜ばしい例である」と評している。
しかし政子自身は「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にない」と最後まで頼朝と子供たちへの想いを述懐している。
彼女の戦いは、頼朝の「遺したもの」を守るための戦いだったのである。
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