元新撰組鬼の三番隊組長、斎藤一が七二歳でこの世を去ったのは一九一六(大正四)年九月二八日。

 背が高く、あまり無駄口を利かない、目つきの鋭い男だったようであるが、出自、経歴、人柄、氏名に至るまで謎の多い人物である。
 最近は、「牙突」という突き業の名手としての斎藤が有名である。これは少年マンガで描かれた斎藤のことであるが、拙稿では「抜き打ちの一閃」に技のさえを見せた、「剣の道にのみ生きた武人、斎藤一」の行動理論を探ることとする。
彼は時を移り場所を変えながらも、剣の腕一つで己の人生を創っていった。
 斎藤の行動理論は「武士とは剣でのみ生きるものである(観)。故に、術を極め続ければ(因)道に至る(果)」術を極めよ(心得モデル)。」というものである。

 彼がこの行動理論に基づき、どのような道を歩んだのか、その足跡をたどってみる。

剣士 斎藤一

司馬遼太郎著「燃えよ剣」では、戊辰戦争、東北戦争で敗れた後、土方とともに函館に向かうも、途中で土方の命により東京へ帰る、と描かれているが、若干違うようである。
 彼は、土方と会津で別れ、会津で戦い続け、敗れた。しかしその後も剣の道を歩み続けたのである。

 新撰組最強の使い手と言われる永倉新八が、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と評している。
 斎藤は江戸に生まれ、若い頃から剣術の腕が立ち、試衛館に出入りしていた時には、すでに、溝口一刀流、無外流の達人であったという。
 一九の歳、江戸小石川で口論から旗本を斬ってしまった斎藤は、京の知人を頼り、剣術道場の師範代を務めていた。
 一八六三年、将軍・徳川家茂上洛の警護隊として作られた浪士組が京へ入るが、浪士組は瓦解。
 近藤一派と芹沢一派は「初心を貫く」と京に残ったものの、そのための戦力が少なく、新たに隊士募集をする。斎藤はこのとき、自ら志願して壬生浪士組に入隊する。

 二十歳で新撰組幹部に抜擢さ、組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務めるほどの技量であった。
 池田屋事件では、土方歳三隊に属し、恩賞を与えられている。
 土方にその腕前を買われていた彼は、長州藩の間者、武田観柳斎、谷三十郎らの粛清に関与したとも言われる。
 一八六七年三月、御陵衛士を結成した伊東甲子太郎とともに新撰組から脱退するもわずか八ヶ月後、斎藤は新撰組の屯所に顔を出す。伊東一派による近藤暗殺計画を密告するためであった。結果、新撰組による伊東の粛清、世に言う油小路事件が起こるのである。
 これを機に、斎藤は新撰組に復帰するが、彼がスパイであったのかどうかは定かではない。

 その後の戊辰戦争において、鳥羽伏見の戦い、東北戦争と各地を転戦する。
 新撰組と別れた斎藤は会津に残り、会津藩士とともに新政府軍への抵抗を続けるが、会津藩は敗れ、全面降伏する。しかし斎藤はなおも生き残り、戦い続けた。
 松平容保が派遣した使者の説得によってようやく投降する。
土方と別れたのは、その上の榎本 武揚が「これからの戦は剣ではなく銃である」と公言していたためのようである。

 会津藩は明治に入り斗南(となみ)藩と名を変え、斗南藩士となった斎藤は、一八七一年警視局(警視庁)に入局する。
 一八七七年西南戦争が起こると、抜刀隊の一員として奮戦し、薩摩を打ち破るのである。

 捉え方によっては、新撰組から伊東に、また新撰組に戻っては会津藩へ、明治に入って後は新政府の警視局へと、二君に見えずという士道に反する鞍替えを繰り返しているようにも見える。
 しかし斎藤は、己の剣の腕一本を唯一の頼りとし、幕末の頃も明治になっても、戦の最前線で奮戦する武士であった。

無外流の道

彼の腕の凄まじさを示すエピソードでもっとも有名なものは、竹刀で缶を貫いたと言うものではないか。
 明治の末、神道無念流有信館で剣の道を歩んでいた一人が、木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていた。斎藤と思われる老人が通りかかり、一瞬のうちに突き、缶は揺れることなく貫かれたといわれる。
 事の真偽は分からないが、そのような話しが残るほど、凄まじい技量を持っていたことの証ではあると言える。

 彼が学んだと言われる無外流(山口一刀流)はどのようなものだったのか。
 斎藤と同様、かなり不明な部分も多い流派であるが、現在は「居合い」の流派としてその姿を残している。
 禅と剣の両方を極めんとした、流祖・辻月丹(つじげったん)が四十五歳の時、禅師から言葉をもらい、その一文から「無外流」と名づけたと言う。
 その一文とは 一法実無外(一法実に外(ほか)無し)というもので、「絶対の真理以外には何もない」という意味である。
 ではその絶対の真理とは何をさすのか?それは「術に始まり道に至る」という教えであったように思える。
 剣とは術であり、その術を磨き続けることによってのみ、やがて道にいたることが出来る、という意味であろう。
 斎藤は、この教えを忠実に実行し、実行し続ける中で、死線を乗り越え生きた。
 斎藤は「この教えは正しい」という信念を確立していたに違いない。それは彼の生きた道が証明している。
 彼は、人や世の流れや権力の移り変わりなど関係なく、剣を極める道にのみ生き続けた。

 道を極める者というのは、「他にもあるかもしれない」と他の道を探すのではなく「この道しかない」と決断できる者なのであろう。彼が定めた道は「剣の道」であった。それ以外、彼の目には映っていなかったのであろう。
 彼は最期の時を結跏趺坐で迎えたという。
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