生真面目で融通が利かない行動理論を持った人間が、ひとたび目指すべき方向性を定めると、その生真面目さ故に周囲のみならず自分をも窮屈にし、揚句には志を果たせず道半ばで倒れてしまうことがある。
男は「人望は西郷、政治は大久保、木戸に匹敵する人材」と評された。
また同時代に名をはせた人々からも「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」「その熱誠、西郷の上にあり」とも「あれは正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」と高く認められている。
「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」とも言われる彼は立ち居振る舞いが爽やかで、人格は高潔、武士道仁義を重んじていた。
剣の腕も一流、教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていたのである。
多くの女性を魅了する色男として劇中に描かれるほどの美男であるが、自身には浮いたうわさ一つ無く、妻・富子と仲睦まじい暮らしぶりであったという。
その妻からは「非常に不器用な人」と評されている。
坂本竜馬から、風貌の特徴から「顎(アギ)」と呼ばれていた「武市半平太」である。
彼の志を絶った行動理論は「正しさを知る自分は優れた存在である(観)。自分が導いてあげれば(因)愚か者であっても正しい道を歩むことが出来る(果)道を示せ(心得モデル)。」というものである。
土佐藩郷士、武市半平太は、一八二九年、土佐長岡郡で、郷士中の最上位の家(白札郷士)に生まれた。
一八四九年父母が死去すると武市は家督を継ぎ、富子と結婚する。
武市の剣は筋がいい。高知城下で一刀流の道場を開き、江戸では鏡心明智流の桃井道場の塾頭をつとめた。
その頃、塾生の中に酒におぼれ外泊するなど風紀を乱す者があったが、武市自らが範を示し風紀の乱れを改めようとした。また、他人の時計を売った金で酒を飲んだ土佐出身の塾生に詰め腹を切らせようとしたこともあるという。風紀が整うと剣の技量も上がるらしく、塾生の剣技はどんどん高まっていった。
当然のごとく武市は、師匠の桃井春蔵から深い感謝と高い評価を得たのである。
坂本竜馬に言わせれば、「アギは窮屈でいかん」のであるが、しかしその窮屈さが、道場の風紀を改め、技量を高めたのである。
白札郷士の家に生まれ、尊敬を集めてきた武市は当然のごとく「正しい自分が導いて上げなければならない」という行動理論を信念化していく。
腕が立ち教養もある、人柄も良く美男で弁も立つ、となれば、土佐勤皇党の同志たちのみならず他藩の志士達ですら武市には一目置くようになっていく。
藩主山内容堂でさえ、武市に対しては礼を持って接したという。
そんな武市は、激変の時勢に遅れた「愚かな藩」を自分の正しさでどうにかしなければならないと考えるようになる。
藩に対する純粋な忠義から、藩論を「一藩勤王」へ統一しようと願うのである。
藩政の実権を握る吉田東洋に対し、「尊王攘夷へと藩論を転換し、一藩統一のもと勤王運動にまい進すべし」と熱心に説いたが、聞き入れられることは無かった。
武市の言動に対し山内容堂は、謀反を起こそうとしているのではないかとの疑念を持ち、かつ藩政は容堂の信頼厚い吉田東洋が握っている。当然武市の計画は遅々として進まない。
一八六二年四月、遂に武市は、「一藩勤王」の夢を実現すべく吉田東洋の暗殺に踏み切るのである。次々と「愚かな有力者」が「粛清」されていく。人斬り以蔵(岡田以蔵)らを動かす武市自身の中では、「すべての行動が勤王という正しさに向かう以上、天に許されること」として成立しているのである。
純粋で窮屈な行動理論が彼の行動を支え続ける。
しかし十月、土佐勤王党の活動を不快とする山内容堂は、弾圧へと動き始めていた。
一八六三年六月、武市の盟友二人が切腹を命ぜられると、武市に心酔する久坂玄瑞は、熱心に脱藩を勧め、長州に逃げて来いと言い続けた。
しかしながら「自分は正しいことをしている。逃げ隠れする必要など無い。士とは義に生きるものだ。自分は義を果たしている」ということを信念とする武市は、それを頑なに拒んだ。むしろそれまで以上に、藩政改革を強行に迫り続けるのである。
八月政変の翌日、武市と同志の大半が投獄され、土佐勤王党は事実上壊滅する。
他の同志が拷問を受ける中、武市は上士扱い故に拷問はなく、「屏風囲い」という談合形式で遇された。武市には自分を信じる同士が口を割るはずは無いという自信があったが、人斬り以蔵が投獄されたと知ると、武市の自信は崩れていく。武市は「以蔵は(口を)割る」と見ていた。理由は、以蔵は「勤皇活動から脱落した愚か者」であったからである。しかし以蔵は割らなかった。
それでも以蔵を信じられない武市は自白を恐れ、毒殺を謀るが失敗。以蔵は武市に信頼されていないことを知るや自白をはじめるのである。
過酷になる取調べの中、衰弱し一人ではたつこともできなくなった武市は、水に映った自分の顔を紙に描き写し、詩を添えた。
花は清香に依って愛せられ、
人は仁義を以って栄ゆ。
幽囚、何ぞ恥ずべき、
只赤心の明らかなるあり。
そして「アア、けしからぬ世の中にて候。」という一文を書き加えている。
「正しさを理解できない愚かな藩上層部」に最期まで憤慨しながら、切腹。三十六歳の五月であった。
また同時代に名をはせた人々からも「当世第一の人物、西郷吉之助の上にあり」「その熱誠、西郷の上にあり」とも「あれは正論家である。正々堂々として乗り出すことには賛成するが、権道によって事を成すということは何時も嫌っている」と高く認められている。
「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」とも言われる彼は立ち居振る舞いが爽やかで、人格は高潔、武士道仁義を重んじていた。
剣の腕も一流、教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていたのである。
多くの女性を魅了する色男として劇中に描かれるほどの美男であるが、自身には浮いたうわさ一つ無く、妻・富子と仲睦まじい暮らしぶりであったという。
その妻からは「非常に不器用な人」と評されている。
坂本竜馬から、風貌の特徴から「顎(アギ)」と呼ばれていた「武市半平太」である。
彼の志を絶った行動理論は「正しさを知る自分は優れた存在である(観)。自分が導いてあげれば(因)愚か者であっても正しい道を歩むことが出来る(果)道を示せ(心得モデル)。」というものである。
土佐藩郷士、武市半平太は、一八二九年、土佐長岡郡で、郷士中の最上位の家(白札郷士)に生まれた。
一八四九年父母が死去すると武市は家督を継ぎ、富子と結婚する。
武市の剣は筋がいい。高知城下で一刀流の道場を開き、江戸では鏡心明智流の桃井道場の塾頭をつとめた。
その頃、塾生の中に酒におぼれ外泊するなど風紀を乱す者があったが、武市自らが範を示し風紀の乱れを改めようとした。また、他人の時計を売った金で酒を飲んだ土佐出身の塾生に詰め腹を切らせようとしたこともあるという。風紀が整うと剣の技量も上がるらしく、塾生の剣技はどんどん高まっていった。
当然のごとく武市は、師匠の桃井春蔵から深い感謝と高い評価を得たのである。
坂本竜馬に言わせれば、「アギは窮屈でいかん」のであるが、しかしその窮屈さが、道場の風紀を改め、技量を高めたのである。
白札郷士の家に生まれ、尊敬を集めてきた武市は当然のごとく「正しい自分が導いて上げなければならない」という行動理論を信念化していく。
腕が立ち教養もある、人柄も良く美男で弁も立つ、となれば、土佐勤皇党の同志たちのみならず他藩の志士達ですら武市には一目置くようになっていく。
藩主山内容堂でさえ、武市に対しては礼を持って接したという。
そんな武市は、激変の時勢に遅れた「愚かな藩」を自分の正しさでどうにかしなければならないと考えるようになる。
藩に対する純粋な忠義から、藩論を「一藩勤王」へ統一しようと願うのである。
藩政の実権を握る吉田東洋に対し、「尊王攘夷へと藩論を転換し、一藩統一のもと勤王運動にまい進すべし」と熱心に説いたが、聞き入れられることは無かった。
武市の言動に対し山内容堂は、謀反を起こそうとしているのではないかとの疑念を持ち、かつ藩政は容堂の信頼厚い吉田東洋が握っている。当然武市の計画は遅々として進まない。
一八六二年四月、遂に武市は、「一藩勤王」の夢を実現すべく吉田東洋の暗殺に踏み切るのである。次々と「愚かな有力者」が「粛清」されていく。人斬り以蔵(岡田以蔵)らを動かす武市自身の中では、「すべての行動が勤王という正しさに向かう以上、天に許されること」として成立しているのである。
純粋で窮屈な行動理論が彼の行動を支え続ける。
しかし十月、土佐勤王党の活動を不快とする山内容堂は、弾圧へと動き始めていた。
一八六三年六月、武市の盟友二人が切腹を命ぜられると、武市に心酔する久坂玄瑞は、熱心に脱藩を勧め、長州に逃げて来いと言い続けた。
しかしながら「自分は正しいことをしている。逃げ隠れする必要など無い。士とは義に生きるものだ。自分は義を果たしている」ということを信念とする武市は、それを頑なに拒んだ。むしろそれまで以上に、藩政改革を強行に迫り続けるのである。
八月政変の翌日、武市と同志の大半が投獄され、土佐勤王党は事実上壊滅する。
他の同志が拷問を受ける中、武市は上士扱い故に拷問はなく、「屏風囲い」という談合形式で遇された。武市には自分を信じる同士が口を割るはずは無いという自信があったが、人斬り以蔵が投獄されたと知ると、武市の自信は崩れていく。武市は「以蔵は(口を)割る」と見ていた。理由は、以蔵は「勤皇活動から脱落した愚か者」であったからである。しかし以蔵は割らなかった。
それでも以蔵を信じられない武市は自白を恐れ、毒殺を謀るが失敗。以蔵は武市に信頼されていないことを知るや自白をはじめるのである。
過酷になる取調べの中、衰弱し一人ではたつこともできなくなった武市は、水に映った自分の顔を紙に描き写し、詩を添えた。
花は清香に依って愛せられ、
人は仁義を以って栄ゆ。
幽囚、何ぞ恥ずべき、
只赤心の明らかなるあり。
そして「アア、けしからぬ世の中にて候。」という一文を書き加えている。
「正しさを理解できない愚かな藩上層部」に最期まで憤慨しながら、切腹。三十六歳の五月であった。
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