最近新聞の社会面等で体罰について論じられることが増えている。体罰はいけないこと、という論調に誤りはないのだが、どうも議論が粗いような気がしてならない。高校の部活動の生徒に対する体罰と柔道のオリンピック選手候補に対する体罰では意味が違うような気がするし、スポーツの指導以外にも、学校の先生がやむを得ず体罰に訴えるということはありそうな気もする。もちろん「体罰(≒暴力)はいけないこと」という前提は疑いようがないのだが、それが故に思考停止に陥っていないか、こうした疑問を持つ姿勢を大切にしたい。
人材マネジメントのコンサルティングをしていても似たような場面に遭遇することがある。最近いくつかのクライアントの人事部門から要望を受けたのが、「目標設定のガイドを明確に示したい」ということである。どんな職種で、等級がどれ位だったら、目標として設定すべき項目は何と何、目標値はいくつ、といったガイドラインを作成したいという要望である。これは、「人事考課は公平になされるべき」という前提に端を発している。もちろん考課が公平になされるべき、という考え方は社員のモラールにも大きな影響を及ぼす重要事であり、それ自体は否定しにくい。しかし、その前提にこだわるあまりさらに重要なことが見過ごされている場合がある。
実際の人事考課を考えると、業務内容や等級が一緒だからといって、達成すべき目標を一律の基準やガイドラインで定めようとするのは無理がある。開発や製造部門では、取扱う製品によって業務の内容が大きく異なってくるし、営業部門で同じ業績目標を掲げるとしても、担当する地区やお客様のタイプによって難易度やサービスの勘所が異なってくるため、目標売上高が一緒だからといって公平ということにはならない。
それでも目標設定のガイドラインが欲しくなるのは、多くの場合次のような理由からである。ひとつは、現場の組織長が、所管する業務や担当する市場の動向を踏まえて、部下に対して具体的な目標設定を出来ないために、人事部に対してガイドの作成を要求するケース。もうひとつは、現場の組織長が、人事(評価)制度が現場の業務の実態を反映していないと言い張ることに対して、人事側が個別に対応策の判断をしきれないためにガイドラインに頼ろうとするケース。いずれにしても、現場の業務の実態を踏まえた目標設定から乖離してしまうことは否めない。現場の組織長にしろ、人事部門にしろ、社内での「公平さを担保する」という名目のもとに、目標の設定をガイドラインに頼ろうとすると、却って現場の業務の目標を効率的に達成できない可能性が出てくるのである。
本来は、会社の業績目標は社内の各組織に割り当てられ、現場の組織長は与えられた人員でその目標を達成しなければならない。こうした組織の目標達成が最も重要であるという認識を共有出来ていれば、社員の公平感を担保する方法は、現場の組織長に委ねられて然るべきである。こうして考えると、人事部門は「(会社全体での)公平な考課の実現」という大義に対して、もっと開き直ってもよいはずである。各部門の組織長により大きく責任を負わせる、あるいは業績目標の達成に向けて、現場にもっと裁量を委ねるというのが、(目標に関するガイドラインの作成よりは)方向性として間違いなく好ましい。
冒頭の例に戻るならば、行為としての体罰を止めていても、教師の発言や振る舞い次第では、教育にむしろ悪影響が及ぶ場合がある。あるいは、極々稀にかもしれないが、体罰が教育的に効果を持つ場合が全くないとは言い切れない。体罰の是非は、教育の質の高低と必ずしも直結していない可能性があるのだ。同様に、人材マネジメントにおいて、社員のモラールを高めるために考課の公平さを実現しようとしているつもりであっても、結果としてそれが会社の業績を損なうことにつながってしまう可能性もある。
『疑いにくい前提』はどこの世界にでもあるのだが、そうした前提が掲げられた時こそ本来目指すべき姿と乖離が生じないか、十分な注意が必要であろう。
実際の人事考課を考えると、業務内容や等級が一緒だからといって、達成すべき目標を一律の基準やガイドラインで定めようとするのは無理がある。開発や製造部門では、取扱う製品によって業務の内容が大きく異なってくるし、営業部門で同じ業績目標を掲げるとしても、担当する地区やお客様のタイプによって難易度やサービスの勘所が異なってくるため、目標売上高が一緒だからといって公平ということにはならない。
それでも目標設定のガイドラインが欲しくなるのは、多くの場合次のような理由からである。ひとつは、現場の組織長が、所管する業務や担当する市場の動向を踏まえて、部下に対して具体的な目標設定を出来ないために、人事部に対してガイドの作成を要求するケース。もうひとつは、現場の組織長が、人事(評価)制度が現場の業務の実態を反映していないと言い張ることに対して、人事側が個別に対応策の判断をしきれないためにガイドラインに頼ろうとするケース。いずれにしても、現場の業務の実態を踏まえた目標設定から乖離してしまうことは否めない。現場の組織長にしろ、人事部門にしろ、社内での「公平さを担保する」という名目のもとに、目標の設定をガイドラインに頼ろうとすると、却って現場の業務の目標を効率的に達成できない可能性が出てくるのである。
本来は、会社の業績目標は社内の各組織に割り当てられ、現場の組織長は与えられた人員でその目標を達成しなければならない。こうした組織の目標達成が最も重要であるという認識を共有出来ていれば、社員の公平感を担保する方法は、現場の組織長に委ねられて然るべきである。こうして考えると、人事部門は「(会社全体での)公平な考課の実現」という大義に対して、もっと開き直ってもよいはずである。各部門の組織長により大きく責任を負わせる、あるいは業績目標の達成に向けて、現場にもっと裁量を委ねるというのが、(目標に関するガイドラインの作成よりは)方向性として間違いなく好ましい。
冒頭の例に戻るならば、行為としての体罰を止めていても、教師の発言や振る舞い次第では、教育にむしろ悪影響が及ぶ場合がある。あるいは、極々稀にかもしれないが、体罰が教育的に効果を持つ場合が全くないとは言い切れない。体罰の是非は、教育の質の高低と必ずしも直結していない可能性があるのだ。同様に、人材マネジメントにおいて、社員のモラールを高めるために考課の公平さを実現しようとしているつもりであっても、結果としてそれが会社の業績を損なうことにつながってしまう可能性もある。
『疑いにくい前提』はどこの世界にでもあるのだが、そうした前提が掲げられた時こそ本来目指すべき姿と乖離が生じないか、十分な注意が必要であろう。
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