今政府は、景気対策のため、法人税率を下げるという議論もはじめたようです。
経済界からは、日本の法人税は高い、もっと安くしないと、国際競争力を失う、と主張もあるようです。
実際に税率が高いのか低いのかという議論は脇において、法人税は国税だけで30%(2007年、国税と地方税をあわせた実効税率は40.69%)、国の歳入のうち、法人税は16%程度を占めています。
経済界からは、日本の法人税は高い、もっと安くしないと、国際競争力を失う、と主張もあるようです。
実際に税率が高いのか低いのかという議論は脇において、法人税は国税だけで30%(2007年、国税と地方税をあわせた実効税率は40.69%)、国の歳入のうち、法人税は16%程度を占めています。
最低限、その意味で「利益を上げ、税金を払うことで社会に貢献できる」ということはいえるでしょう。
しかし、企業の社会的貢献は、税金を払うことだけではなく、製品・サービスの提供による豊かな社会の実現、雇用の維持・拡大、文化の発展など多岐にわたります。
利益だけでは計れないのは事実ですが、継続企業の前提(ゴーイングコンサーン)を生むのは、絶えざる利益の創出以外の何者でもありません。
だからこそ、利益を生み続けることこそ、企業が社会に貢献する最大の要素となることは明らかです。
しかし、「お金を稼ぐこと」になんとなーく、「イケナイコト」をしている感覚を持つ新入社員が多いのも事実です。心のどこかで「金儲けは悪」なんですね。
以前、愚息が学祭で焼き鳥屋をやっていました。業務用スーパーで仕入れてきた1本20円の焼き鳥を100円で完売、3日間で利益は4万円になったそうです。本人曰く「毎日、学祭やらないかなぁ」。
一方で本人も「こんなに儲けていいのかなぁ」という感想も言っていました。
この「こんなに儲けていいのか?」の言葉の裏に「イケナイコト」という意味を感じるのです。(学祭への出店は、ゴーイングコンサーンではありませんが)
「利益を出せない会社は、社会の発展に役立ってない」という意識調査の設問では、
そう思う(利益なくして貢献なし) 21.7%
わからない 23.9%
そう思わない(利益はなくても貢献あり) 54.5%
という数値になっています。半数以上が、「企業は利益を出せなくても社会の発展に役立っている」という意識です。
利益を出すことに対する意味を理解していない、見方を変えれば、「利益を出すより社会貢献だろう、利益は二の次」という意識が感じられます。
「金儲けは善」という思考ではないのです。なぜ、「善」とは感じられないのでしょうか?
それは、「お役立ちの結果としての」という前提を感じることができないからではないかと私は思います。
ちなみに、「利益を出せない会社は、社会の発展に役立っていない」という設問に「そう思う」と答え、かつ、「企業が存在している背景には、必ず社会に役立っているという事実がある」にも「そう思う」と答える新入社員のデータだけを見て、全体と比較すると、次のよう意識も強いことがわかります。
● 企業では、百の知識より一つの成果の方が尊ばれるべきである
● 適職だとまず自分で思わないかぎり、いくらさがし回っても見つかるものではない
● 企業活動における効率向上とは、最大の努力で最大の成果をあげることである
● 会社は、自分で努力しようとしない人達の成長にまで、責任を持つ必要はない
● 失敗しないことを常に心がけているようでは、社会の発展に貢献できない
「企業は、社会に役立ち、利益を出すもの」と考える新入社員は、業績志向があること、仕事に対して、努力するという姿勢が見て取れます。
しかし、多くの新入社員は、「金儲けは悪」と感じているかのような思考をもってしまっているようです。そこには、教育の問題や、歴史的な風土の問題があるのではないでしょうか。
たとえば、
「江戸時代は士農工商。お金を儲ける商人を低く見る風習があった」
「儒教精神とお金儲けは合わない」
「金儲けには、悪徳商人のイメージがある」
小学校では、価格の決め方を「原価+手間賃」というような公式で教えていたりします。「手間賃」ですから、決して利益(もうけ)ではないのですね。
別の側面ですが、ある会社の人事担当者が、ため息をつきながらおっしゃられたことを忘れられません。
「新人が残業するんだよねー。ある飲み会のときに、残業のことを『いいアルバイトですよ』、って言ってたんです。仕事や経費に関して、どんな感覚を持っているのか・・・」
金のなる木が会社にあるかのような発想です。
利益を生み出すことの重要性は、「頭」では理解できるはずです。
それを日常の業務の中でも感じさせることが重要でしょう。何にどうお金がかかっているのかを教えることが必要です。
弊社の研修では、「お客様のお客様に役立つことを意識する」と伝えています。
給料は、お客様からいただいている、という思考を伝えています。
そうでないと、「金のなる木」が会社にあるかのように、社内に向かって仕事をしてしまうことになります。
私は、ジェックに入社したとき、「もらっている給料の5倍稼いで一人前」といわれました。
自分(営業)、インストラクター、アシスタント、事務、そして会社の取り分を結局営業が稼いでいるわけで、そのためには、自分の給料の5倍という発想です。
その5倍を稼げないと、居づらいという雰囲気のある会社です。そういった雰囲気(風土)作りも必要ではないでしょうか。
ところで、マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(略して「プロ倫」)の中で、プロテスタントの禁欲精神や勤勉さが資本主義を誕生させたと説きます。勤勉に働き、貨幣を獲得すること、それを再投資してさらに拡大すること、それが神から与えられた「天職」、一種の倫理的義務だとして、邁進していったというのです。
ここでは、「金儲けは善」です。
封建的な社会の中で、権力を持てない庶民は、経済的合理性の中で、自身の優位性を見出した、ともいえます。江戸時代の商人を想い浮かべると、まさしく、そんな感じがします。
この「プロ倫」の最後の方には、次のような一節があります。
『ともかく、勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱(岡一注:禁欲の精神)をもう必要としない。(中略)今日営利のもっとも自由なアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味をとりさられているために、純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格をおびるにいたることも稀ではない。
(中略)こうした文化発展の「最後の人々」にとっては、次の言葉が真理となるであろう。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまで登りつめた、と自惚れるのだ」と。(中央公論社 「世界の名著 ウェーバー」より)
金融をスポーツのようにプレイし、その利益を強欲なまでに享受し、自惚れていたアメリカの金融機関は破綻しました。
今日の様子を100年も前から予測していたかのようではありませんか?
しかし、企業の社会的貢献は、税金を払うことだけではなく、製品・サービスの提供による豊かな社会の実現、雇用の維持・拡大、文化の発展など多岐にわたります。
利益だけでは計れないのは事実ですが、継続企業の前提(ゴーイングコンサーン)を生むのは、絶えざる利益の創出以外の何者でもありません。
だからこそ、利益を生み続けることこそ、企業が社会に貢献する最大の要素となることは明らかです。
しかし、「お金を稼ぐこと」になんとなーく、「イケナイコト」をしている感覚を持つ新入社員が多いのも事実です。心のどこかで「金儲けは悪」なんですね。
以前、愚息が学祭で焼き鳥屋をやっていました。業務用スーパーで仕入れてきた1本20円の焼き鳥を100円で完売、3日間で利益は4万円になったそうです。本人曰く「毎日、学祭やらないかなぁ」。
一方で本人も「こんなに儲けていいのかなぁ」という感想も言っていました。
この「こんなに儲けていいのか?」の言葉の裏に「イケナイコト」という意味を感じるのです。(学祭への出店は、ゴーイングコンサーンではありませんが)
「利益を出せない会社は、社会の発展に役立ってない」という意識調査の設問では、
そう思う(利益なくして貢献なし) 21.7%
わからない 23.9%
そう思わない(利益はなくても貢献あり) 54.5%
という数値になっています。半数以上が、「企業は利益を出せなくても社会の発展に役立っている」という意識です。
利益を出すことに対する意味を理解していない、見方を変えれば、「利益を出すより社会貢献だろう、利益は二の次」という意識が感じられます。
「金儲けは善」という思考ではないのです。なぜ、「善」とは感じられないのでしょうか?
それは、「お役立ちの結果としての」という前提を感じることができないからではないかと私は思います。
ちなみに、「利益を出せない会社は、社会の発展に役立っていない」という設問に「そう思う」と答え、かつ、「企業が存在している背景には、必ず社会に役立っているという事実がある」にも「そう思う」と答える新入社員のデータだけを見て、全体と比較すると、次のよう意識も強いことがわかります。
● 企業では、百の知識より一つの成果の方が尊ばれるべきである
● 適職だとまず自分で思わないかぎり、いくらさがし回っても見つかるものではない
● 企業活動における効率向上とは、最大の努力で最大の成果をあげることである
● 会社は、自分で努力しようとしない人達の成長にまで、責任を持つ必要はない
● 失敗しないことを常に心がけているようでは、社会の発展に貢献できない
「企業は、社会に役立ち、利益を出すもの」と考える新入社員は、業績志向があること、仕事に対して、努力するという姿勢が見て取れます。
しかし、多くの新入社員は、「金儲けは悪」と感じているかのような思考をもってしまっているようです。そこには、教育の問題や、歴史的な風土の問題があるのではないでしょうか。
たとえば、
「江戸時代は士農工商。お金を儲ける商人を低く見る風習があった」
「儒教精神とお金儲けは合わない」
「金儲けには、悪徳商人のイメージがある」
小学校では、価格の決め方を「原価+手間賃」というような公式で教えていたりします。「手間賃」ですから、決して利益(もうけ)ではないのですね。
別の側面ですが、ある会社の人事担当者が、ため息をつきながらおっしゃられたことを忘れられません。
「新人が残業するんだよねー。ある飲み会のときに、残業のことを『いいアルバイトですよ』、って言ってたんです。仕事や経費に関して、どんな感覚を持っているのか・・・」
金のなる木が会社にあるかのような発想です。
利益を生み出すことの重要性は、「頭」では理解できるはずです。
それを日常の業務の中でも感じさせることが重要でしょう。何にどうお金がかかっているのかを教えることが必要です。
弊社の研修では、「お客様のお客様に役立つことを意識する」と伝えています。
給料は、お客様からいただいている、という思考を伝えています。
そうでないと、「金のなる木」が会社にあるかのように、社内に向かって仕事をしてしまうことになります。
私は、ジェックに入社したとき、「もらっている給料の5倍稼いで一人前」といわれました。
自分(営業)、インストラクター、アシスタント、事務、そして会社の取り分を結局営業が稼いでいるわけで、そのためには、自分の給料の5倍という発想です。
その5倍を稼げないと、居づらいという雰囲気のある会社です。そういった雰囲気(風土)作りも必要ではないでしょうか。
ところで、マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(略して「プロ倫」)の中で、プロテスタントの禁欲精神や勤勉さが資本主義を誕生させたと説きます。勤勉に働き、貨幣を獲得すること、それを再投資してさらに拡大すること、それが神から与えられた「天職」、一種の倫理的義務だとして、邁進していったというのです。
ここでは、「金儲けは善」です。
封建的な社会の中で、権力を持てない庶民は、経済的合理性の中で、自身の優位性を見出した、ともいえます。江戸時代の商人を想い浮かべると、まさしく、そんな感じがします。
この「プロ倫」の最後の方には、次のような一節があります。
『ともかく、勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱(岡一注:禁欲の精神)をもう必要としない。(中略)今日営利のもっとも自由なアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味をとりさられているために、純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格をおびるにいたることも稀ではない。
(中略)こうした文化発展の「最後の人々」にとっては、次の言葉が真理となるであろう。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、かつて達せられたことのない人間性の段階にまで登りつめた、と自惚れるのだ」と。(中央公論社 「世界の名著 ウェーバー」より)
金融をスポーツのようにプレイし、その利益を強欲なまでに享受し、自惚れていたアメリカの金融機関は破綻しました。
今日の様子を100年も前から予測していたかのようではありませんか?
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