すべては民のために

河井は最後まで、河井であった。「戦は民を苦しめるだけのものである。これをなすことは、己の使命を果たすことを妨げる」とわかっており、それが「武装中立」を生み出した。
 「われは経世済民の徒である。それを貫くことが武士たる河井が美しく生きる道である。」
 「薩長は恐れるほどのものではない。ゆえに、薩長に対抗できる戦力を整えれば、戦うことなく、民を守ることができる」
 このような考えから、まずは藩を豊かにし、国力を整え、官軍と互角に戦えるだけの戦力を蓄えた。
 すべては「民のため」だったのである。
 だからこそ、彼は北越戦争の折に今町(現在の見附市)から中ノ島(現在の長岡市)にかけての巡視のさなか、孫の遺体を洗っていた老人に「許してくれ」「俺が家老になったのはこういうつもりではなかった」という息が苦しくなるほどの言葉を発したのであろう。
 もし彼に誤りがあったとすれは「薩長恐るるに足らず」という認識ではなかったか。

 河井の行動理論が、彼のあり方をつくり、長岡藩の行く道を定め、長岡の民の暮らしを支配した。
 やはり、行動理論が時代を左右するのである。
第4回 河井継之助
株式会社ジェック定期刊行誌
『行動人』2011年度 春号掲載

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