武人「石田三成」
三成の行動理論は、政治家でも武人でもなく、優れた官僚のものであった。故に、秀吉という優れた政治家的武人の下では、存分にその行動理論と才が発揮できたのであろう。しかし、戦国という時代がそれを許さなかった。秀吉の死と共に、彼は「武人として」動かざるを得ない状況になったのである。
しかしそうさせたのもまた「主君に対する忠誠=優れた官僚」の行動理論であろう。
天下分け目の戦いの後、近江国(滋賀県)のとある村にある院を頼ったが、住職から「何が所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答えたそうである。
さらには処刑直前の三成に家康が小袖を与えた際、「上様(家康)からのものである」と聞いた彼は、「上様といえば秀頼公より他にない。いつから家康が上様になったのか」と受け取らなかったと常山紀談に残されている。
三成は、自分が主君と信じた「秀吉の血を引くもの」への忠誠、無私の精神を死の瞬間まで失わなかった。
なぜ秀吉であったのか?忠誠を尽くす対象は家康ではいけなかったのか?
その答えは三成の原体験にある。秀吉が巧みな政経によってわずか三年で長浜を活性化させた姿を目の当たりにしたのである。この原体験が、秀吉こそ忠誠を尽くす相手であるという信念を生み出した。「秀吉に忠誠を尽くすことが、公器としての自分の使命を果たすことになる」と。そして秀吉の死後、「自分が秀吉の意志を継がなければ世がまた戦乱へと逆戻りしてしまう」と。
三成の全ての行動は、「優れた官僚たる行動理論」から生まれている。「官僚の立場」であったならば彼は名声のみを残したであろう。しかし「武人の立場」になったが故に、悪名が残らざるを得なかった。
まさに、行動理論が歴史を創るのである。
優れた官僚たるもう一つの要素、地道な努力を支える「執念」を示すエピソードがある。
処刑直前、喉が乾いた三成は警護の者に水を頼んだが、水は無く、代わりに柿を勧められた。「柿は痰の毒であるのでいらない」と答えた三成に、警護の者は「すぐに首を切られる者が、毒を避けて何になるのか」と尋ねた。返答は「大志を持つ者は、最期の瞬間まで命を惜しむものだ」というものであったという(明良洪範)。
このあたりにも、「何が何でも結果を出す」という、有能な官僚の行動理論が伺える。
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