忠臣 松永久秀
むしろ久秀は戦国の時代にまれなほど主家を支えた武将ではないか。実休が没することになる久米田の戦では、三好家家中が勢いを失う中、彼一人が策をめぐらし、人を動かし、城を守った。すべての城が陥落するという圧倒的劣勢の中、長慶がいる飯盛城(大阪府)を守りきったのだ。その結果、三好軍は大勝した。その後、大和支配を進めようとする最中、三好三人衆が三好義継を擁して飯盛山城を攻め、久秀との友好を一方的に絶つ。しかしその義継が三人衆との対立を起こし、久秀を頼ると彼を擁護して三人衆との戦いを選択するのである。
久秀の行動を支配したもの
彼は日蓮宗の徒であった。日蓮は相次ぐ自然災害や争乱などで混乱を極めた時代に、社会全体が幸せになるように願い、「来世ではなく今を生きることの大切さ」と、「自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう努力することの大切さ」を説く。久秀は、ただひたすら目の前の人の苦しみを取り除くことに、戦国武将としての己のすべてを注いだのではないだろうか。
ならば、その彼の行動を支配した行動理論は「自らの幸せを願うなら(果)まず世の安穏を願わなければならない(因)。なぜならば、人は世で生かされるもの(観)だからである。まず目の前のものに安穏を与えよ(心得モデル)」というものではないか。
この、ある意味近視眼的な行動理論が、戦国の一時代を劇的な謀反の色に染めあげた。
やはり、行動理論が歴史を創るのである。
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