謀略指針の転換点

そんな彼の謀略の方向性を転換させることが起こる。これまでの公武合体運動の努力の結晶である、慶喜・春嶽・容堂・宗城・松平容保・久光による参預会議の解体である。彼が「大事は去った」と記したその日記には、水戸天狗党三五二人斬首の報告に対し「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以って幕滅亡のしるしと察せられ候」とも記している。
 大久保の中にあった慶喜公と幕府に対する期待がこの時期「パチン」とはじけた。「共に政事を行うに値せず」と見切ってしまったのである。
 ここから彼の謀略の指針は「倒幕」へと一気に傾いていく。
一八六七年、慶喜が将軍の座に着くと同時に、薩摩は武力討伐への動きを加速させ、倒幕をなすのである。

維新完遂のシナリオ

維新は幕府を倒すことで終わったのではなく、そこから始まったと言える。
 政治の中枢に座った大久保は、その磨きぬかれた手腕を発揮する。版籍奉還・廃藩置県・東京遷都といった新体制への移行と同時に、新政府への反抗勢力の一掃を両立させなければならない彼は、萩の乱、神風連の乱、佐賀の乱など、次々起こる反乱に対し、一つひとつ厳然たる処置をしていく。最終的にはかつての盟友、西郷隆盛をも討伐するのである。
 戊辰戦争直後の彼は語っている。「維新の精神を完遂するには三十年の時が要る。明治十年までの第一期は戦乱が多い創業の時期。明治二十年までの第二期は内治を整え、民産を興す即ち建設の時期、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治三〇年までの第三期は後進の賢者に譲り、発展を待つ時期だ」と。
 彼は、自身が描いた「維新完遂のシナリオ」を駆けるように生きた。
 何が彼を突き動かしたのか?

私心無き謀略家の行動理論

彼は卑役から幕藩体制の中軸を経て明治政府の中枢に座り、死を迎える中で、公武合体を唱え、武力討伐へ傾いて事をなす。そのすべては戦ではなく政事である。
 「表の西郷・裏の大久保」といわれた彼は、私腹を肥やすことなく、むしろ予算のつかない公共事業に私財を投じていた。そのため死後多額の借金が残ったが、債権者たちは返済を遺族に求めなかったという。「裏の大久保」には私心がなかった証である。
 お家騒動で自身の生活を翻弄された彼が実現したかったのは、「お家大事の価値観」の社会ではなく「家族を大切にする価値観」の社会ではなかったか。
 「人は、お家のためではなく、己自身のために生きるべきものであり、政事とは、人が己の幸せのために生きられる社会を創ることである(観)、そして我は政治家である」だから「日本人が己のために生きていける世を実現するためには(果)、自分はいかなる手段を用いても構わない(因)」「目的実現を第一とせよ」という行動理論こそが、彼を突き動かしたのである。

 予断ながら、薩摩藩の教育法である、郷中(ごうじゅう)教育では以下のような価値観を育てるそうである。

 嘘を言うな
 負けるな
 弱いものいじめをするな
 武士道の義を実践せよ
 心身を鍛錬せよ
 質実剛健たれ

 大久保の中にはこの郷中教育で培われた価値観が横たわっているのであろう。
第9回 大久保利通
株式会社ジェック定期刊行誌
『行動人』2012年度 春号掲載

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