経世済民と武装中立

慶応三年十月、将軍慶喜の大政奉還から、政局の動きが一気に加速する。同十二月、王政復古の大号令を発せられ、幕府が廃止されると同時に河井らは上洛するが、翌慶応四(一八六八)年一月、鳥羽・伏見の戦いが始まり、旧幕府軍の敗退、慶喜の「敵味方双方からの逃亡」を知り、河井は江戸へ戻る。
 このあたりから、彼の行動は「経世済民」から旧幕府軍にも官軍にも、どちらにもつかない「武装中立」へと傾いていく。
 同年五月、小千谷談判で河井は、官軍の山県有朋クラスとの交渉を望んでいたが、実際に出てきたのは軍監岩村精一郎である。
 この岩村という男は、器量狭小であったようである。武装中立の立場から長岡への官軍進攻の中止と会津藩の赦免を求めた河井と岩村との談判は決裂。長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、北越戦争へと突入することになる。

 河井はなぜ「経世済民」から「武装中立」へと「変質」していったのだろうか?
 いや、実は変質したのではないのではないか。
それを理解するためには江戸時代という三百年の歴史が生み出した価値観を抜きに考えることは不可能であるように思う。
 江戸時代を経て武士階級には形而上的思考法が浸透する。
 つまり、「剣は人を切る道具である。剣術は人を切る技である」という実学的発想から、「剣は己を磨くためのものである。剣道は己を磨く道である」という哲学が武士たちを支配していくのである。
 また、武士道の倫理には「人はどう思考すれば美しいか」というものが潜んでいるのに対し、「人はどう思考し行動すれば民を救えるか」と考えるのが、江戸期の儒教である。

 河井は、間違いなく陽明学の徒であった。つまり彼の行動を支配していたのは、「己は民を救うための道具である。己を磨き続けることが、民を救うことにつながる。実学を重んじよ」という行動理論である。
 しかし、武装中立を唱えた彼の行動は、まるで変節したように見える。
 そこには、三百年という時間が育てた「武士は美しく生き、死すべきものである。生き残ることを第一と判断するのは武士の美学に反することになる。美しさを第一とせよ」という、この時代の多くの武士が共有する価値観が影響を与えていたのである。
 しかし、彼の根底には陽明学を学ぶ中で形成された行動理論がある。
 「経世済民」と「武士道」という、一見相反する行動理論と時代の価値観、それが、彼を「武装中立」へと走らせたのではないだろうか?
 彼は小千谷談判決裂後も「戦ってはならない」と発言しており、このため「戦うのか、戦わないのか、当藩の姿勢はどちらなのだ」と紛糾した様子もうかがえる。

すべては民のために

この記事にリアクションをお願いします!