人は使命を果たすための存在である
彼は「馬に乗れず、馬方の付く馬からも落ちかけたことがあり、「先生は宿場馬に乗っても落ちる人だ」という伝説ができたそうである。また意地の悪い者が刀の鑑定にかこつけて大村に刀を抜かせようとしたところ、抜き方を知らず力任せに引き抜き、その後ため息を付いた。周囲が「大変な武士もあったものだ」と物笑いにしたところ、「兵学における士とは、重兵卒を率いる者のことであり。刀槍を扱うものではない。ましてや高禄を食むだけの者のことではない」と言った。大村が長州藩で成し遂げた仕事の一つに、オランダ語で書かれた兵書の翻訳がある。
翻訳書には「足軽・陪臣・農民・町民が重兵である。」と説き、士とは「重兵を率いる学問・方略・智謀を持つ者であり、刀槍を扱う能力を持って士と言うのではない」と定義づけている。これは当時の藩体制・階級制そのもの否定であり、改革の提言である。
当時の藩のお歴々には、これらの提言が受け入れられるはずもない。しかし、「自分に期待されていることは、勝つことであり、長州軍が幕府軍に勝つためには必須であり、これ以外ない」という強い信念を持っていた。
慶応元(一八六五)年、幕府の第二次征長軍が動員されるという噂が流れ、村田は「軍政専務」となる。ここで「大村益次郎」と改名し、軍師としての活躍が始まる。
彼は戦闘の前日には、徹底的に戦場の地形を偵察して分析し、敵兵の用兵手段を予測した。それをもって「当軍はこう動く。すると敵軍はこう対応する。そこで事前にここに塀を置く・・・」と自軍の戦略を打ち出す。これが百発百中であった。
第二長州征伐(一八六六)の折、「浜田城を攻めれば、出雲松平家が援軍を出すのでは」という質問に対し、「親藩同士だからといってそうはいかない。たとえ浜田が戦場になっても、むやみに援軍は来ない。それは諸藩の事情が許さない」と言って、兵を出し、事実そのとおりになった。
また大村は「江城日誌」という陣中新聞で、事前に「彰義隊、一日で討滅」という題の予定稿を刷らせている。後日発行する際には、一文字の変更も不要であった。驚くべき戦略眼であり、洞察力である。
当たる確率の高い戦略を構築するには、人間というものをよく知らなければならない。大村は一見、コミュニケーション音痴・人間音痴に見えるが、もしそうであったならば、戦を勝利に導く事は不可能である。戦は人が成すものである。彼は人間の「情に流される、理不尽な言動をとる、勢いに流される・・・」というような人間くささを熟知していたに違いない。
歴史を動かす行動理論
ではなぜ、「奇妙な人」であったのか?彼は「自分は、使命を果たすための機械である」という自分観を持っていた。そしてその使命は、医者である時代は「人治し(治療)」であり、軍師である時代は「世直し」である。世直しのためには、幕藩体制を壊さなければならず、「自分はそのために命を与えられた」と考えている節がある。そしてその奥には、
「人は使命を果たすために生まれた存在である」という人間観がある。
この行動理論が、どのような知識技術を身につけるのかを決定付け、人と接する場面の言動を方向付け、戦略立案と作戦遂行をなさしめ、彼自身の運命を決定した。結果、幕藩体制の崩壊、明治維新の成就を実現し、近代日本の原型を築き上げることとなった。
まさに行動理論が歴史を作るのである。
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