窓際族ならぬ「ドア際族」という言葉があったことをご存じだろうか。

いつでも組織パフォーマンスを左右するのは、中間管理職の能力と活力に決まっているけれども、その要件として喧伝されるものは、時々によって一様ではない。異業種交流など社外活動に積極的で、社内にとどまらない知見と人脈をもつ管理職こそが組織の力を高めるとされた時期に、反面その人たちは、ドアを開けて出て行ける=いつでも辞められる、という意味で使われていた。
日本企業がその成長を競い合っていた頃の、企業の自己革新とか現場からのイノベーションには、会社固有の価値観や情報の範囲を超えた知見を持つ管理職の育成が必要だけれども、それは同時にキーマンの流動化を促進することでもあるというジレンマだった。その後、経営にとって長いシュリンクとリストラクチャリングの季節を通過していま、「他流試合」の要請を実に多くの人材開発部門の方々から聞く。

やはり求められているのは、管理職者としての視野の拡大と人脈である。自身の能力や知識の限界への気づいてもらい、また異なる発想に刺激され、以降も継続する人脈も持ってほしい、というのが共通する経営の思いだ。その背景には、防衛戦のなかで堅固になった“企業の壁”の弊害が、顕在化しているからだろう。壁にとらわれない広い視野と柔軟な発想をもつ管理職が、環境変化に即応する経営に必要ということだ。

ドア際族とは、ネットワーク論で言い換えれば、ゲートキーパーである。社内の情報と人脈、社外の情報と人脈、その双方のネットワークの結節点にいる人。(ある知見を)知っている人、ではなく、(社内社外を問わず)知っている人を知っている人、である。あるいは、知っている人を探し出せる人。ネットワークの結節点で企業の境界に臨み、軽快に、小さなゲートをつかさどる人たちである。

経営学の教科書にあるコンティンジェンシー理論(=状況適応論)は、外部環境の不確実性に対応した経営のためには、組織内部に不確実性を持つことが必要だと言った。でも、ここには、企業の壁が前提されている気配がある。大事なことはむしろ、企業の壁自体をすり抜けて、組織の内外の情報が行き来する現場のダイナミズムではないか。ゲートキーパーとは、それをする人である。

ゲートには、関所という意味もある。とすれば、ゲートキーパーは出入りさせる情報かどうかを判断し、場合によっては遮断する機能を担う。はたして個々の従業員が、その会社にとっての情報の重要性を判断してもよいものか。それが、経営にとって資するものと言えるか。個々人の価値観に依存してしまう危険があるのではないか。

といった心配は、しかし、無用である。ゲートキーパーたるその人が採用され、いま活躍されているということ自体が、その会社の価値観と力量を体現しているはずだからである。
  • 1

この記事にリアクションをお願いします!