今回は独り言に近いような内容です。
最近は、スマートフォンの利用について「青少年の健全な成長に利するため」という名目で、未成年者に対して様々な制限がかかっています。今までにない新しいツールの出現は、当然社会と私たちの暮らしに大きな影響をもたらします。そして、それはツールである以上、利用の仕方によってはプラスにもマイナスにもなってしまいます。つまりは、使う人のモラルや利用にあたっての考え方が成熟していないと、とても危険な道具にもなってしまうという側面があることは否めません。
最近は、スマートフォンの利用について「青少年の健全な成長に利するため」という名目で、未成年者に対して様々な制限がかかっています。今までにない新しいツールの出現は、当然社会と私たちの暮らしに大きな影響をもたらします。そして、それはツールである以上、利用の仕方によってはプラスにもマイナスにもなってしまいます。つまりは、使う人のモラルや利用にあたっての考え方が成熟していないと、とても危険な道具にもなってしまうという側面があることは否めません。
これらのツールを青少年が使う際には、その精神的な成熟度を考えた場合、まったく大人と同じように自由に使用することに対してリスクが大きいことから、「保護」という視点からその利用についての制限がかけられることになります。私は今年で50歳を超えましたが、こうやって考えてみると私たちが子供のころにはなかった様々なツールが増えたと同時に、子供たちを保護するという名目のルールもこの20年くらいで随分増えてしまっているように感じます。
そして、新しいツールが増えることにより、世の中の仕組みや人と人との関わり方についても複雑になってきているように感じます。昔は、人と会うには電話をかけるか、もしくは手紙を書いてアポをとり、必要な場合は何度もやり取りをしてようやく会うことができたのですが、今ならメールか携帯ですぐにアポを取ることができます。さらには、わざわざ会うために移動しなくても、Skypeで面談(テレビ電話・テレビ会議)することも可能になっています。便利なツールが増えた反面、それらのツールを使いこなして社会人として行動するためには学ばなければならないことがとても多くなってしまったようにも感じています。
就職活動についても同様で、インターネットを使い、携帯を使い、応募の際にはエントリーシートを作成するなど、内定を獲得するには様々なツールとスキルを身につけていかねばなりません。そして、これらについても就職活動が始まる前に修得しておく必要があることから、最近ではエントリーシートの書き方を正規の科目として指導している学校が増えているようです。いきなりこの手の書類を書くのは相当大変な作業になるので、就職活動が高度化する中でそのような指導が必要になっていることは理解できないことはありません。
今の大学生はこのような「やり方を教える」、あるいは「やり方をルール化しその通りにやることを教える」という教育を子供の頃からたくさん受けており、型にはまることに対してはあまり苦痛に感じていないように感じます。そういう意味では、とても素直にそうした決まりごとを受け入れる柔軟性はとても高いといえるでしょう。しかし、逆にルールがない、自ら何かを判断して決めなければならないという状況に置かれることにとても不安感を持つか、あるいはそこで自律的に判断することを放棄してしまうという行動を取る学生がとても多くなっています。つまり、こうした「青少年の健全な育成のために」という名目で様々なルールを作り、そのルールを守るように子供をしつけるという今の日本の教育が、結果的に、社会が求める能力、すなわち自律性や多様性を損なう方向に作用してしまっているように感じます。
では、そうしたツール(道具)の利用法についてまったく規制する必要がないかというと、そんなことはないと思います。携帯などもそうですが、道具ですから使い方によっては利器になることもあれば凶器になることもあるわけで、そのリスクについて教えることは必要だと考えています。教えるべきことは道具としての危険性であり、そもそもこの道具はどのような目的で作られたもので、どのように使うべきかという、ある意味で哲学的な要素を盛り込んだ教育をしていくべきではと考えています。うまく表現できないのですが、「危ないからだめ」ではなく「リスクを理解した上で利用しなさい」というようなスタンスでしょうか。
今の大学生を見ていると、この「リスクを理解した上で使う」という行動そのものが取れない人がとても増えているように感じています。これは、上述した危ないものは使わせないというルールを決めて、そのルールに従わせるという教育の弊害であるのは明らかです。リスクのあるものはリスクを侵さない範囲でしか使わない、あるいはそのような決まりができるまでは使ってはいけないかのような刷り込みができてしまっているように感じます。
結局のところ、自律と自己責任ということになってくるように感じるのですが、自律と自己責任意識とは、自己が失敗するリスクを背負うこと、ダメージを受ける危険性を背負って判断し行動するという感覚だと考えているのですが、そういう意味では今の道具の利用方法に制限をかける教育ではなく、ある程度失敗し、ダメージを受けることを前提とした教育環境を設定する必要があると考えています。
「保護のためのルールに従わせる教育」から「失敗を含めた経験から学ぶ教育」へ、教育の方向に大きな変革期が訪れているように感じています。
では、今の日本の初等、中等教育の現場でそのような教育を行うことができるでしょうか。おそらく公立ではほぼ100%不可能なのではと思います。そんなことを教師が言おうものなら、おそらくは父兄からものすごいクレーム(そんなことを言ってうちの子供が失敗したらどうしてくれるんですか!!みたいな)が来ることが想定できるわけで、現場の教師の皆様ががんばって何とかなるような話ではないように感じます。
学校教育のあり方の本質論を私がここで憂いているだけでは何も変わりませんので、まずは自分のできるところからやっていこうとは思っているのですが・・・。
では今回はこのあたりで。
そして、新しいツールが増えることにより、世の中の仕組みや人と人との関わり方についても複雑になってきているように感じます。昔は、人と会うには電話をかけるか、もしくは手紙を書いてアポをとり、必要な場合は何度もやり取りをしてようやく会うことができたのですが、今ならメールか携帯ですぐにアポを取ることができます。さらには、わざわざ会うために移動しなくても、Skypeで面談(テレビ電話・テレビ会議)することも可能になっています。便利なツールが増えた反面、それらのツールを使いこなして社会人として行動するためには学ばなければならないことがとても多くなってしまったようにも感じています。
就職活動についても同様で、インターネットを使い、携帯を使い、応募の際にはエントリーシートを作成するなど、内定を獲得するには様々なツールとスキルを身につけていかねばなりません。そして、これらについても就職活動が始まる前に修得しておく必要があることから、最近ではエントリーシートの書き方を正規の科目として指導している学校が増えているようです。いきなりこの手の書類を書くのは相当大変な作業になるので、就職活動が高度化する中でそのような指導が必要になっていることは理解できないことはありません。
今の大学生はこのような「やり方を教える」、あるいは「やり方をルール化しその通りにやることを教える」という教育を子供の頃からたくさん受けており、型にはまることに対してはあまり苦痛に感じていないように感じます。そういう意味では、とても素直にそうした決まりごとを受け入れる柔軟性はとても高いといえるでしょう。しかし、逆にルールがない、自ら何かを判断して決めなければならないという状況に置かれることにとても不安感を持つか、あるいはそこで自律的に判断することを放棄してしまうという行動を取る学生がとても多くなっています。つまり、こうした「青少年の健全な育成のために」という名目で様々なルールを作り、そのルールを守るように子供をしつけるという今の日本の教育が、結果的に、社会が求める能力、すなわち自律性や多様性を損なう方向に作用してしまっているように感じます。
では、そうしたツール(道具)の利用法についてまったく規制する必要がないかというと、そんなことはないと思います。携帯などもそうですが、道具ですから使い方によっては利器になることもあれば凶器になることもあるわけで、そのリスクについて教えることは必要だと考えています。教えるべきことは道具としての危険性であり、そもそもこの道具はどのような目的で作られたもので、どのように使うべきかという、ある意味で哲学的な要素を盛り込んだ教育をしていくべきではと考えています。うまく表現できないのですが、「危ないからだめ」ではなく「リスクを理解した上で利用しなさい」というようなスタンスでしょうか。
今の大学生を見ていると、この「リスクを理解した上で使う」という行動そのものが取れない人がとても増えているように感じています。これは、上述した危ないものは使わせないというルールを決めて、そのルールに従わせるという教育の弊害であるのは明らかです。リスクのあるものはリスクを侵さない範囲でしか使わない、あるいはそのような決まりができるまでは使ってはいけないかのような刷り込みができてしまっているように感じます。
結局のところ、自律と自己責任ということになってくるように感じるのですが、自律と自己責任意識とは、自己が失敗するリスクを背負うこと、ダメージを受ける危険性を背負って判断し行動するという感覚だと考えているのですが、そういう意味では今の道具の利用方法に制限をかける教育ではなく、ある程度失敗し、ダメージを受けることを前提とした教育環境を設定する必要があると考えています。
「保護のためのルールに従わせる教育」から「失敗を含めた経験から学ぶ教育」へ、教育の方向に大きな変革期が訪れているように感じています。
では、今の日本の初等、中等教育の現場でそのような教育を行うことができるでしょうか。おそらく公立ではほぼ100%不可能なのではと思います。そんなことを教師が言おうものなら、おそらくは父兄からものすごいクレーム(そんなことを言ってうちの子供が失敗したらどうしてくれるんですか!!みたいな)が来ることが想定できるわけで、現場の教師の皆様ががんばって何とかなるような話ではないように感じます。
学校教育のあり方の本質論を私がここで憂いているだけでは何も変わりませんので、まずは自分のできるところからやっていこうとは思っているのですが・・・。
では今回はこのあたりで。
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