世の中が如何に不確実な様相を匂わせようと、新年を迎え、一つ年を経たことは確実である。新年の誓いは過去を払拭しようとする変身願望が生み出すものかもしれない。ある1冊の本は、200ページほどで読後の変身を体感できる。著者の知性の豊かさと自由な発想を羨んだ“脱帽”の1冊でもある。
障がいは欠落ではなく、別の才能

働き方も、「個人モデルから社会モデルへ転換」する

著者は、障がい者を、“健常者が使っているものを使わず、健常者が使っていないものを使っている人”と位置づけている。そして福祉的視点ではなく、身体論から違いを確認したものである。助けるのではなく、違いを面白がることから障がいに対して新しい社会的価値を生み出すことを目指したものである、と述べている。障がい者とは一般に欠落を意味する。ところが別の世界があるのだ。
著書の名は「目の見えない人は世界をどう見ているか」。著者は伊藤亜紗氏。

表題をめくると、生物学者の福岡伸一氏の言葉。
「(見えない)ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること」とある。
私はこの激励文に釘付けになってしまった。つまり、障がいは欠落ではなく、別の才能がある、という解釈である。ある障がい者がアート作品を発表することに社会的な価値を見出す、という意味ではなく、もっと身体の具体的な解釈、感性、感触に及んでいる。

同書によると、個人のできなさや能力の欠如、だから触ってはいけないもの、という「障がい」のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたもので、大量生産、均一製品の製造から生まれたものとしている。労働内容の画一化・代替可能な部分がフォーカスされ、それができない人が「障がい者」ということになってしまった。それ以前の社会では“見えないからできる”仕事があったのに、“見えないからできないこと”に注目が集まったと。

一方、これまで「障がい」は個人に属していたが、最近では、障がいの原因は社会の側にあるという考え方が出てきた。“足が不自由であることは障がいではなく、足が不自由なために、ひとりで旅行に行けない、望んだ職を得られず経済的に余裕がない”ことが、障がいとされるようになった。これを「個人モデルから社会モデルへの転換」と称している。

同書は、視覚障がい者にフォーカスしたものだが、多様な働き方が求められる、これからの社会形成のヒントにもなるだろう。
働き方改革は「長時間労働が望ましい」という従来の価値観からの転換を図ろうとする側面があるが、それだけではなく、病気・けがの治療のために短時間しか働けない、妊婦、あるいは家族の介護をしている、といった雇用者を受け止める方法を考えていくことが、重要になってくる。
「個人モデルから社会モデルへ」。働く場にもこうした転換が必要なのではないか。
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